きのうは義父の年忌供養。
故人を偲ぶ、ということは人にはDNAに深く染みこんだ行為だと思うけれど、
きのうの日経新聞に嵐山光三郎さんのエッセイで
「上手な逝き方」と題した文章に巡りあった。
文章自体は、「生きている間は逆境に立ち向かって、生を存分に謳歌したい」
と結ばれているけれど、
文中で、現代の死に方状況が綴られていて興味深い。
義父もそうしたのだけれど、
最近「献体」が増えているのだという。
大変増えてきて、病院が困っていると言うことだそうだ。
そのうえ、医学生が解剖実習として利用した後の遺体の引き取りを
遺族が拒むという例が増えているのだという。
献体される側というのは、さまざまな「死への倫理」を実践するように
取り決めに沿って事を進めているけれど、
一方で死ぬ側、というか遺族側は、そうではないことが増えているというのだ。
献体という名の「遺体処理」である、と記されている。
これから、高齢化社会を迎えて
死のあり方というのも、大きく変わっていくだろうことを
予感させるような文章だとまじまじと読んでいた。
日本の歴史を考えていると、
初期、支配階級側が仏教というものを支配の仕組みの中に組み込み
官制の大寺院を建立して、中央政権としての
正統性を主張する大きなバックボーンにしていった状況が見られる。
そして、仏教思想はその後、一貫して
民衆の側に浸透していって、
「文化」の中心軸として、民衆の支持を集めていく。
地獄の光景とか、来世への希求、救済への希望として
日々の暮らしの苦しさを紛らわせる精神の麻薬装置(マルクス主義的把握)
として機能してきたのは間違いがない。
欧米社会では、依然としてキリスト教による精神支配が
根強く存在し続けていくだろうと思われるのに対して、
日本では、世界で初めてまったく宗教心というものが
人の死の精神性と切り離されていく可能性があるのだろうか?
死という、哲学や精神性のもっとも根源的な欲求が、
放り出されていく可能性があるのだろうか?
どうも、そんな予感がしてきてならない。
変化は必然であり、それは受け入れていくしかないだろうけれど、
こうした事態を、どのように日本人は解決していくのだろうか、
きわめて象徴的なことがらの開始のように思えてならない。
みなさん、いかがお考えになるでしょうか?
写真は、仏教上の精神到達概念である、「羅漢」を表現する
「五百羅漢像」の一部です。
仏教において、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと。サンスクリット語"arhat"の主格 "arhan" の音写語。略称して羅漢(らかん)ともいう。
岩手盛岡の寺院・報恩寺収蔵のもの。