写真は6年前に探訪する機会があった、草戸千軒遺跡の復元住宅。
広島県福山市にある博物館に展示されている。
住宅取材を基本的な行動様式として見続けてくると、
必然的に人間の暮らしようとか、感受性の推移とかを知りたくなり、
古建築、古民家というようなものに興味が向かっていく。
普段から空間を取材してくると、時間を超えて「聞き取り」たくなってくる。
この草戸千軒、というのは、鎌倉から室町にかけて栄えた集落。
瀬戸内海の芦田川河口の港町として栄えた。遺跡の発掘調査から、
時期によって町の規模は変遷しているが草戸千軒町は近隣にあった
長和荘などの荘園や地頭、杉原氏や備後国人で一帯の領主であった
渡辺氏の保護の元、他の地方との物流の交流拠点として繁栄しており、
数多くの商工業者がいたと見られ、遠くは朝鮮半島や
中国大陸とも交易していたとみられている。〜以上、Wikipediaの記述。
瀬戸内海に面した河口で、周辺地域から物資が集まってきて
海からは他地域、遠くアジア地域からの物資も届く。
交易ということにほぼ専業化した人々の暮らしようがあったのだと思う。
なんとか千軒という呼称はこの瀬戸内海地域ではよく付けられる地名。
たくさん家があるというような意味合いなのだろうと思われる。
今日の都市のように多くの家々が立ち並び、人口が膾炙した。
復元された住宅群には、商家・小工業者・職人などの暮らし痕跡が刻印されている。
こういった職業階層から、有力資本家や交易業者が出現し、
江戸期には大阪を中心とした資本蓄積に至り、
やがて明治の革命のスポンサーになっていく。
住宅を見ていて気付くのは、構造材には曲がり材が随所に使われていること。
ほとんどまっすぐな材は見掛けない。
土台くらいしか、まっすぐなままという木材はほとんどなかった。
常識的に考えれば、こういう曲がり材は、価格的に合理性があったに違いないと
そんな理由がアタマに浮かんでくる。
木舞と土塗り壁という技術は、こういう曲がり材でも家が作れるようにするために
その補強的な意味合いから発達したようにも思う。
復元の工事にあたって、現代の職人さんたちは苦労したに違いない。
出来上がっている空間には、まことに融通無碍という印象が漂っていて、
なんとも独特の自由な空気感が流れている。
素材に合わせていくタイプの技術が育っていっただろうと想像も膨らむ。
わが家のご先祖さまもこういう都市の空気のなかから
生き延びてきたと伝承されています。こういう空気、なんか楽しい(笑)。