三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

日本人に「旬」意識を育んだ縄文ライフ

2015年09月28日 06時04分07秒 | 歴史探訪
ここのところ、すっかり縄文期にハマっています(笑)。
その社会のありようがほのみえるアイヌ民族の社会研究を
知人渾身の著作でたどらせていただいて、その想像力を広げています。
どうやら遺伝子レベルの解析でも、
日本人の基底は縄文にその基本形があり、
より縄文に近い民としてアイヌや、琉球の人々が列島縁辺に残り、
本州以南、九州以北では弥生以降のアジアからの流入と縄文人との融合で、
この列島の人々の形質が形成されたことが明らかになってきた。
基本は縄文と弥生のハイブリッドというのが、わたしたちの基本形。
そんな風に考えてくると、やはり母体としての縄文が
イメージ世界の中で、未探索の領域として浮かび上がってきますね。

で、最近、いわゆる「旬」という感覚が
やはり縄文由来の感覚だというように思えてきています。
アイヌの人々は、和人による農耕中心の社会とは違った、
狩猟採集に若干の農耕が入ったうえで、基本的には交易の民として
北方アジアと和人社会をつなぐかたちで生き延びてきたとされます。
かれらの暮らしも、このような交易の変遷の中で
和人社会の欲求に対応して、狩猟採集のありようも、大きく変わってきた。
サケ漁や高価なヒグマ、猛禽類鳥類の狩猟への特化があったとされる。
商品経済社会と交易することで、アイヌの生き方も変化した。
そうした変化以前の、いわば豊かな狩猟採集の時代、
それが縄文の社会のように見えてきます。
アイヌ人口は、明治初期の調査時点で北海道で2万数千だったそうですが、
狩猟採集社会では、基本的にその程度の人口密度であり、
日本列島の自然環境からすると、その程度の人口は、
ゆったりと養い、暮らしていけるような環境だったと推定されます。



狩猟採集では、各季節ごとに食材が変化していく。
そういうなかで、いわば自然に「食欲」にもそのことが投影されていく。
冬を越してから春先の根菜類、春の食感を刺激する食材類、
山菜類などが、ひとびとの食欲を誘ったに違いない。
四季変化のそれぞれで、初鰹であるとか、
ゆたかな食感が、かれらの胃袋を刺激したに違いないと思うのです。
弥生以降の、米食だけに偏重した食習慣だけでは
このような「旬」の感覚は形成されなかったに違いない。
地球上でも稀有なほどに四季の変化、移ろいが明瞭な風土のなかで、
わたしたちは、食の繊細な感受性も磨いてきたに違いない、
そんなふうに考え続けております。



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名古屋城本丸御殿の復元工事

2015年09月13日 07時18分12秒 | 歴史探訪


名古屋での新住協総会のセミナーなどの日程を終えて
その後は、現場見学などの日程が組まれていたのですが、
飛行機の時間もあって、そちらには参加せず帰る予定だったのですが、
少し、時間があったので、参加していた西方設計・西方さんからの情報で
名古屋城本丸御殿の復元の様子が公開されているよ、
というささやきに誘われて、見学してまいりました。
しかし、行った日には工事が休みと言うことで、
残念ながら、大工工事の様子などは見学できませんでした。
でも復元途中ではあっても、公開されている部分もあって
たいへん興味深く見学できました。

名古屋城というのは、
江戸時代の初めに、徳川家支配の象徴的な意味も持たせた
大公共事業として営まれたものであることが、歴然としています。
御三家として、徳川家の威光を示すということが目標の工事だったのでしょう。
これでもかという「無節」のきれいな木材がふんだんに使われています。
庭に面した開口部から入ってくる光が、バウンドしながら
室内の金襖に残影する様子は、陶然とするような光景。
しかし、こんなに節のない材料ばかり使っては
あまりにもムダが多すぎるのではないかと、そんな心配が頭をよぎります。



「木取り」の模型も上の写真のように展示されていましたが、
これを「無節」とするためには、歩留まりが当然悪くなる。
まぁしかし、そうは言っても、復元工事なので、本来あった状態に
復元していくことを考えれば、やむを得ない非エコロジーぶりなのか。
以下、名古屋市の復元計画の概要。

(1)復元方針
本丸御殿の歴史的意義を踏まえ、焼失前と同等の文化的価値を有するとともに広く
市民が活用でき、世界的な市民の財産となるように、
工期を3期10年で総事業費約150億円をかけて本丸御殿を復元するものとします。
(2)復元手法
焼失前の本丸御殿と同等の歴史的文化的価値を有する建物を再現するよう、
原則として旧来の材料・工法による、旧状再現を図るものとします。
なお、現代の技術や生産事情、活用方法や維持管理も考慮して取り組むこととします。
(3)復元時代設定
将軍の上洛に伴う上洛殿が増築されることにより本丸御殿の格式が
最も高まった寛永期(1624-1644)とします。
(4)建築概要
構造・階数 木造平屋建(書院造)
延べ面積 約3,100平方メートル
建築面積 約3,600平方メートル



ということで、本格的な完成は平成29年度で、30年に完成公開されるとのこと。
国家としての、正直な歴史をあきらかにする為には、
意義のある工事だとも思います。
しかし、こういう「威光を示す」という部分が、
見栄が優先されるような名古屋の地域風土になったのかなぁと
駅前の高級ショップ群と重ね合っても見えてきた次第であります(笑)。
おっと、貧乏人のやっかみになってしまいました。



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経済・軍事の要衝、尾張犬山城

2015年09月12日 06時26分01秒 | 歴史探訪


出張に出ると、やはり疲れがたまります。
1日寝ただけではやはり完全回復はせず、2晩寝てようやく復活感。
新住協の総会と言うことで、関係の深いたくさんのひとと、いっぺんに会える。
こういった会合のすばらしいメリットですが、
一方で、どうしても疲れは溜まり込まざるを得ない。
本日は土曜日なので、仕事関係は小休止で、
見学した古建築から、国宝・犬山城であります。

国宝だということなのですが、
本当は、織田有楽が作った茶室「如庵」のほうを見学したかったのですが、
なかに入れるのは月に1度くらいだそうで、今月は日程が合わなかった。
その日は茶を喫したりして、中に入られるのだそうであります。
もちろん、茶の作法なども身につけておりませんので
その点でもやや気後れ感はいなめないのですが、
まぁ、やむを得ない、ということで、代わりにこちらの国宝を見学。
国宝に指定されたのは、天守という城郭形式の端緒に近い建築という
意味合いが強いのだろうと思われます。
歴史的には、秀吉と家康が戦った小牧長久手の戦いで
秀吉が、小牧山に陣を敷いた家康に対抗して入った城であり、
1枚目の写真で小牧山が正面に対峙していました。
しばし、秀吉側の視点も得られた感を持てた次第であります。
なんですが、やはり城を実際に体験すると、
これは明らかに経済的な要衝の位置に建築されていることが実感できる。
日本有数の穀倉地帯である濃尾平野から、より日本全域への
広域交易可能な伊勢湾に向かっての要衝に立地している。
すぐ下を流れる木曽川の大河は、尾張の大動脈と言って過言ではない。
日々、物資の流通がこの大河を使って集積分散されたことは明白。
その上、東西の陸路・東海道のポイントにもなっている。



いわゆる城下町が開かれていて
その街並みが観光スポットにもなっていますが、
この地の経済的な重要性が端的に理解出来ます。
あんまり調べてはいないのですが、
織田氏という存在は、信長の時代になって「兵農分離」が可能になった。
それまでの軍団編成が農民をかり集めた軍団だったのに対して
専門化した軍団を編成していたとされるのですが、
そのことは、経済力が背景として豊かでなければ不可能。
楽市楽座というかたちで、それまでの商業結社・座の権益を
武力で奪い取って「城下町」に権益を集中させることで、
それが可能になった。
そういった背景的な事実が、この城からは伝わってくる気がしました。
信長を輩出した「織田氏」というものが、
中世を通じて培ってきた経済力の実質が見える形になっている
そんな強い印象を抱いた次第です。



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人類史創成段階から、縄文の世まで

2015年09月01日 05時39分01秒 | 歴史探訪
さて、家族と言葉が、人類社会の安全保障に関わって発生して以降、
同時に「分配」の概念も、初源的に現れたとされています。
人類がその生命維持の基本である「食」の問題について
いろいろな慣習を生み出していって、その安定的な分配を実現してきたとされる。
アフリカなどの熱帯地帯にだけ暮らしていた時代には
狩猟は基本的には小集団で行われ、その獲物はその小集団だけでは
食べきれないほどの量であった。
それを持参して帰り着く小社会内で、
社会規範・ルールとして、過剰なまでに相互に互酬しあう文化配慮が、
現代でも狩猟生活を営んでいる部族などには共通してみられるという。
同じ類人猿社会を構成しているチンパンジーなどでも、食料分配には、
その社会での個体間の優劣関係を超えた互酬の関係が普遍的だそうです。
その後の人類社会が、なぜ「交易」に向かうのか、を含めて
こうした類的社会ルールというものが、ほかの霊長類との進化的差別化で
大きく働いてきた実態が垣間見えてくる。
だからわたしたちは、類的に数を増やしてくることができたのだと。

で、ある時期から人類は熱帯だけではなく、
冬の季節を持つ、温帯地帯にも領域を広げていく。
他の動物種と決定的に違いが発生してくるのは、
このような「社会ルール」という習慣的知性が発展していったことが
どうやら「進化上」の最大要因だったようなのですね。
直立歩行し、火を絶やさない技術方法を体得し、
棒や石で武装したサルは、家族と食料分配の社会システムを持ち、
言語を発展させることで、他の動物種を凌駕する進化の基本因子を獲得した。
けっして機能的な身体進化ではない部分で、進化したのだと。
このような進化は、400~500万年に渡って繰り広げられ、
その最先端種として、現生人類が5万年前に
アフリカを出て世界各地に進出する、グレートジャーニーをはじめた。
そして、3万年前ころに東アジアの弧状の海岸地域に到達し、
気候の温暖化によって照葉樹林たるブナの森が海浜近くにまで広がる
生息環境の中で、1万3千年前頃から、この地に定住をはじめた。
そして漁撈を大きな食料調達手段として、
ブナの森が供給する多様な食材とを「鍋料理」のように食する習慣を持った
縄文文化を生成させていった。
土器の生産において、日本列島社会は最先端的な地域だったようです。
この時代には、いわゆる食料調達の作業に費やす時間は
おおむね4時間だったと推定されています。
男性は漁撈や狩猟、女性は木の実などの植物採集。
さらに他の集落との「分配」である「交易」も丸木舟などの
移動手段によって広範に維持・確保されていた。
土器の製造は、写真のように女性による家族労働の結果であったのでしょうか?
定住が人類の「高齢化」を生み、同時に「生活文化」の揺りかごになった様子が
このジオラマからは伝わってくるものがあります。
それにしても、縄文の「火炎土器」って、どうして作られたのか、
その動機と、それが果たす機能性など、
謎の非常に多いものをわたしたちの祖先の人たちは残してくれています。
あの火炎や、文様は、一種の文字に至るプロセス生成物なのか、
まことに豊穣な想像力を掻き立てられる。
しかも、手作りのその一品一品からは、
高い芸術性も訴えかけてくると思って見続けております。





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家族の起源~人類社会の相互安全保障

2015年08月31日 07時22分40秒 | 歴史探訪
きのうの続きであります。
「人類史のなかの定住革命」に教えられたことです。
まさか、人類史の学術的な本を読んでいて、
こういった根源的な問いかけへの回答があろうとは思いもよらず
こうしたアプローチが論旨としてはじめられたあたりでは、
まさに知的興奮が最高潮に達しました。
著者である前筑波大学教授である西田正規氏も、この章を書き出すに当たって
きちんとこれは推論であり、証明しうる科学的根拠の提示は難しいこと、
この推論よりも合理的な論証があれば、撤回するに躊躇しないことなどと
科学者としての良心をかけて述べられています。
しかし、人類史の専門研究者として、こうした推論を持たずに
断片としての事実痕跡だけを調査研究するのであれば、
それはおよそ、人類史研究とは言えないとも語られている。
まことに清々しい態度だと思いました。

で、きのうの「火を扱って武装した」上で、樹上生活から地上生活に降り立った
およそ300万年とも500万年ともいわれる以前のわたしたちの祖先は、
楽園である森を、より樹上生活に適合した種であるオナガザルの群に追われ、
手に棒や、相手に対して致命的打撃を加える石を持つことになった結果、
それらが、獲物の動物だけに向けられず、
自分たちの「社会」構成員同士でも、こうした攻撃がありえる危機に直面した。
つねに危険な武器を持っていることが、自分たち社会をも脅かした。
そのときの主要な「社会危機」の内実は、性と食の問題。
とくにほかの霊長類と違って、発情期がほぼ常態的になった人類では
性の問題こそが、いちばんの安全保障上の大問題になった。
それが解決される手段として、性を特定の男女間で制約するというタブーを
社会が共有するということだったとされています。
夫婦という概念の誕生。
近縁種であるチンパンジーなどの社会では、抜けがたく乱婚的であったのに対し
人類は、この選択を初めにしたのだという推論です。
これが、武器を持っていた人類個体間での社会的安全保障体制を構築した。
そしてこのワンペアの男女関係を基軸にして
血縁関係という、DNAレベルでの共感をベースにした
「家族」という組織が人類社会の基本構成因子として成立した。
さらに西田氏は、この安全保障体制のもう一つのモノとして
「言語」の発生を推論されています。
社会成員相互の間で頻繁に起こりうる緊張関係をやわらげる機能装置として
融和的な雰囲気を形成するのに、言葉が必要になったと。

そうであるとすると、
家族の愛情とは、まさに「育てる」ものであるのは、自明ですね。
住宅も、こうした「家族」のかたちを入れるイレモノだと。
しかし、現代の知の世界というのはすばらしい。




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火を扱い武装したサル~人類進化の瞬間

2015年08月30日 07時38分26秒 | 歴史探訪
さて先般来、読み進めていた「人類史のなかの定住革命」読了しました。
っていうか、1週間前くらいに読了していましたので、
読書期間は断続的に、おおむね10日間程度だったようです。
人類史という概観もそのなかに包摂されているので
まことに巨視的な視点を与えられまして、
今後の自分自身の基本スタンスについて、大きな視点が得られました。
気づきは実に広範囲にわたったわけですが、
そのなかでも、脊椎動物における手型動物と口型動物の進化の違い、
そして手型動物の進化の最前線に立って、ついには道具を手にして
樹上から地上に降りたわれわれの遠い先祖のイメージが鮮明に得られました。
これからさらに、定住のベースになる住宅について
深く掘り起こしていきたいと考えていますが、
一方で、人類史そのものにも深く魅了されました。
で、いまはわたしたちの精神世界の探求として「神話」についての
著述を読み進めております。
やはりKndleなどの電子デバイスでの読書は、ある種の革命ですね。
わたしの場合はひたすら「ロングテール」型の、
歴史とか、人間のやってきたこと、考えてきたことの軌跡を探求するのが
なによりの興味分野であると言うことを、知らされます。
そこからひるがえって、現在の仕事領域にもフィードバックできるものがある。
日々の気づきにつながり、それが巨視的なことにどんどん向かいます。
まことに楽しい読書探求の世界を教えられています。
仕事をもし離れても、興味分野の深化という最大の娯楽が持てました。
まことに電子革命はすばらしい。

横道に逸れましたが、
手型、口型という生物の「生存戦略」による分化であります。
外界との対応において、視覚という外界認識機能たる脳よりも前にある
器官として、口を発展させるか、手を発展させるかという違いがある。
手を発展させるという生存戦略はいろいろな動物が選択してきたけれど
人類学的には、われわれは、手型動物進化の最先端にあるのだという。
そして樹上生活により適合したであろうオナガザル類との生存競争の果てに
樹上生活から、地上生活に移行せざるを得なくなったとき、
地上生活で、より適者として君臨していた口型の大型狩猟動物との
生存競争に臨むに際して、手型動物最先端の種として、
その手には、武器としての棒と、石が握られていたということなのです。
まずは自衛として始まったとは思えませんね。
やはり食糧確保のための「戦略」として、武装して戦う手段だったのでしょう。
まことにわかりやすいイメージであります。
なぜ、人類社会に普遍的に「原罪」的な刷り込みがあるのか、
こうしたイメージは、明確な回答を与えてくれるように思います。
口型生存戦略進化の最高峰に位置していた大型猛獣類と、
互角以上に戦い得たのは、手にした武器であった。
進化を重ねてきた「手型」生存戦略の延長線に、
比較的容易に入手できる武器・道具として、木の棒や石が握られた。
さらにそこから夜に森に帰ることなく、キャンプで野宿していくことになるとき、
火は、絶対に必要になったと推定できる。
夜行性の口型動物による襲撃から自衛するためには
火を燃やし続けるのは、理の当然ではないか。
どの時点でか、地上生活と平行して、
エネルギーを自分でコントロールすることに慣れていったに違いない。

小さいときから、歴史というものに不思議に惹かれ続けてきて
ある邂逅に似た思いが深く迫ってくるようです。
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交易ルート・平泉の陶器

2008年06月29日 08時21分28秒 | 歴史探訪



きのうのブログの関連で、交易ルートのこと。
平泉の藤原氏居館跡地の発掘作業では大量の陶磁器が出土するとか。
多くは日常使いと言うよりは、今日で言えば弁当箱のような
「かわらけ」が主体なんだとか。
都市平泉は「接待」が主要な役割であったといわれています。
こういうこともわかってくるということで、古代世界の実情が迫ってくる部分ですね。

で、そうした陶器類は、ごらんのようなルートで運ばれたとのこと。
平泉には遠く中国からの陶器類も多かったそうです。
これは平泉という存在の富を物語るものでしょう。
そのほか、愛知県との交易ルートが主体。
たぶん、「舶来」の中国陶器もいったん愛知県に輸入されて、
そこから全国に流通していったものと思われます。
仙台などでは愛知県との経済的な結びつきを感じることがあるのですが、
歴史的にはこのような交易の世界があったのですね。
海を使っての交易の世界の広がりは
当時の経済活動をいろいろに想起させてくれます。
政治的には栄枯盛衰が繰り返されたでしょうが、
こういう交易の世界では、いったん流通が始まれば、
ひととモノの交流は、そうは絶えなかっただろうと思うのです。
平安末期の東北の人口推定は約60万人。
関東が160万人。東海地区が50万人程度。
<歴史人口学・鬼頭宏さんの資料より>
この船の交易ルートを見ると、こういう人口地域間の
さまざまなひととモノの流れや動き、というものを想像します。
船の交易は行きと帰り、ともに積み荷を満載しなければ割が合わない。
お互いの地域から、いろいろな産物が行き交ったのでしょう。
一枚の図ですが、実に多様な想像を起こさせてくれます。


NPO住宅クレーム110番|イザというときに役立つ 住まいのQ&A
北海道・東北の住宅雑誌[Replan(リプラン)]|家づくり・住まいの相談・会社選び

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ケプロンさんの経歴

2008年06月08日 09時31分08秒 | 歴史探訪

北海道の開拓期については、
北海道内の小学校でも触れられている(ハズ)ですが、
・・・って、いま坊主に確認したら、
「いや、そんなの習ってないよ」
という返事。
わたしが習った小学校低学年歴史教育のスタートは
「地域の歴史」のようなものでしたが、
そういうの、やっていないのでしょうか?

わたしたちのころには、いちばん初めの頃に
この人の名前が登場することになっていました。
北海道の開拓の基本計画を定めた人物として知られています。
大久保利通に連なる薩摩の本流政治家・黒田清隆が
初代の「北海道開拓使」次官(長官は宮様)になったとき、
北海道の開拓方針を諮問すべき人物として目を付けた人物。
当時、アメリカ合衆国の「農務局長」を務めていた。
明治維新政府にしてみれば、当時のアメリカを
ヨーロッパ移民による新開拓地として見ていたので、
当然、日本にとっての北海道をそうしたアナロジーで見ていたなかで、
基本的な開拓策として、北米の体験を輸入しようと考えたものと思えます。

司馬遼太郎さんの数少ない、北海道に関する記述が
「街道を行く」シリーズにあります。
わたしは司馬さんのファンなので、これまであんまり検証せずに
その記述を信用してしまっていたのですが、
どうも、司馬さんの認識違いかも知れない点を発見してしまったところ。
司馬さんの記述にはホーレス・ケプロンを「農務長官」と書いてあるのですが、
どうも、そうではなく、「農務局長」が正しいらしい。
わたしも何回か、講演などで司馬さんの記述に沿って発言したので、
ちょっと冷や汗、というところです。
当時のアメリカの政治・政府組織制度などを確認もしなければならない。
現在の常識で考えると、「農務局長」はいわば官僚機構のトップという響きであって、
大臣・長官という政治家ではないと、認識できる。
ただし、アメリカは現在でも政権が変わると、一気に実務組織トップも替わると言われる。
日本の常識とも違いがあるので、難しい。
というところで、やや袋小路に入ってしまいました。
さてさて、歴史に関する記述の確認って難作業ですね、ふ~。

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平泉、世界遺産「延期」

2008年06月06日 07時15分40秒 | 歴史探訪

やや旧聞に属しますが、先日の新住協全国大会中に
残念ながら、岩手県の平泉の世界遺産登録が「延期」となったニューズが流れました。

<以下は、朝日新聞からの抜粋>
文化庁は平泉の価値を「浄土思想が核心を担った平泉文化の伝統は、宗教儀礼や伝承、文学作品などを通じて、今も日本人の精神構造に多大な影響を与えている」と主張してきたが、核となる浄土思想が十分に理解されない結果となった。
 「平泉と浄土思想との関連性の重要さ」や「平泉の景観が『人類の歴史上の重要な段階を物語る見本』であること」などについて「十分に証明しきれていない」などと指摘。地下遺構が大半を占め、「浄土思想」が現在、目にみえる形ではわかりにくいことも、不利に働いたとみられる。
 世界遺産委員会は7月2日からカナダ・ケベック市で開かれる予定。審議結果はイコモスの勧告に従う例が多く、近年は新規登録を抑制する傾向にもある。延期が決まると、推薦書の提出と現地調査を再び行うことになり、登録は最短で2010年となる。

という残念な結果ですね。
わたしは浄土思想云々よりも、
日本文化の多様性の方に重点を置いてアピールした方が良かったのではないかと
思われてなりません。
確かに日本中世を支配した「浄土思想」が中心的であることはそうなのだけれど、
平泉の魅力は、日本歴史のなかで、鎌倉幕府に先行する
「二重権力状況」、半独立的な権力とその文化性、ということではと思われます。
日本の歴史が秘めてきた「多様性」を表すことになると思うのです。
あきらかに多賀城の機構とはまったく別に
平泉は独立国家の計画的首府であったと思うのですね。
日本国家に対して、外交的に対処しているという意味では、
鎌倉幕府は、平泉を多いに参考にし、
それだけに、頼朝の平泉に対する恐怖は大きかっただろうと思われます。

そういう平泉を、日本国家が世界遺産申請するのですから、
海外のみなさんからは、ちょっとアピールが明確でない、と見なされたのかも知れません。
大変がっかりしたのですが、さて、石見銀山のように
逆転で申請受理されるかどうか、
まだ、望みを捨てずに見守っていきたいです。

<写真は毛通寺境内の建物>

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なぜ源氏は?

2008年05月31日 08時25分34秒 | 歴史探訪

前九年、後三年戦争で勝利を収めながら、
結局、東北北部地域の覇権を握られなかったのだろうか?
というのが疑問です。
武門のライバル、平氏や秀郷流藤原氏に対して
常に劣勢だった源氏は、この奥州制覇に命をかけていたと思われます。
で、戦闘には最終的に勝利したのに、
公家社会での政治的戦いで、無惨に敗北します。
源氏も考えながら、公家政治家連中とも交渉しながら、
軍事行動を行っていただろうから、
ことは単純ではないのだろうけれど、
軍事面では配下に従っていたにすぎない藤原清衡に
政治的には完敗を喫してしまっている。
清衡という人物、秀郷流武門藤原氏の流れを汲み、
同時に北東北世界での盟主でもあるという存在に負けてしまったと言える。

なぜなんでしょうかね?
考えられる理由は、公家社会の興味はどこにあったか、ということでしょうか。
公家にとっては、衣川から北の北東北世界は
自分たちにとって、どういう意味があったのか。
荘園とかの直接的な利害について、たとえば源氏が力を持ってしまえば
その収奪構造の維持が難しい。
さらに、それ以外の馬だとか、金、北方交易品という
貴重な北東北の物資についての「安定的管理力」が
やはり「現地官人」の流れを汲む勢力のほうが、より高いと判断したのではないか。
そういう意味合いから考えると、
朝廷にとって、北東北は貿易をする相手であって、
その相手には、安定的物品調達力を最優先に考えたということ。
このあたり、複雑な経済的利害関係が渦巻いている感じがいたします。
源氏の流れを汲む、頼朝がほぼ1世紀後に
かれの祖父が安倍氏の頭領を処刑した「厨川」で、
奥州藤原氏の頭目を残酷に処刑した故事は
どうもこのあたりの政治的な要因が大きかったのではないかと思います。
藤原氏の追討に対して、朝廷の追討令が下りなかったということは
その辺で、いかに朝廷に対する奥州藤原氏の政治的影響力が大きかったのか、
ということを表してもいると思います。

本日は、まったくの歴史好きブログであります。
ではでは。
写真は、中尊寺の一建物に立っていた卒塔婆です。

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