三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

人間の手業~てわざ~

2011年05月31日 05時01分33秒 | Weblog






写真は、先日見に行った旭川博物館の展示から。
北東アジア民族の靴です。
たぶん、マンモスハンターの末裔であるかれらは
海洋生物の狩猟に優れた能力を見せていた民族のようなのですが、
アザラシとかの獣皮を加工してこのような見事な手業製品を造形していた。
一品生産に違いないかれらの加工品がここまで精巧で
デザイン的にもまことに優れていることに驚く。
本体は毛皮で造作され、
微調整するためのひもは、樹皮をなめしたようなものを使っている。
民族の中の女性たちがこうした加工を担当したことは疑いない。
そういえば、アイヌの女性たちは結婚に際して
その衣類の一切を自分で造作して持参するのだと聞いた。
男性はチセと呼ばれる家を造作するのだという。
まぁ、こちらはコタンの総出で手伝うことになっているそうだけれど。
そういう意味では、女性たちの造作の才能は素晴らしい。
こうしたものを造形していく繊細な感受性、
その美しさへの思いの深さに、まことに打たれてしまう思いがする。
きっと、こうした造形を造った人は、美しいこころの旋律を奏でていたに相違ない、
と、そういう想念に駆られてしまう。
はるかに昔のそういう感性に、強く惹かれていく。
男性が女性に思いを抱いた、その深い部分にこういう感受性への
憧れがあったことを、強く思い起こさせられる。
このような男女の深みのある交感は、
現代生活において、むしろ大きく鈍磨してしまっていると思う。

こうした見事な造形物を見ると、
そこに込められた人間ひとりひとりの個性の息吹が感じられて、
凛とした美しさに深く癒される。
わたしたちは、ものを豊かに消費しているけれど
本当に豊かになったのだろうか?
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住まいと環境 東北フォーラム2011総会

2011年05月30日 06時38分40秒 | Weblog







先週金曜日は、仙台にて 住まいと環境 東北フォーラムの総会。
今回は大震災を経験してはじめての総会です。
わたしどもでは、6月3日からの配布開始で
「東北の住まい再生」という無料配布誌を、東北6県の協力を受けて
各県の窓口から一般のみなさんにお届けします。
この企画では、岩手・宮城・福島・山形の4県からは
「後援」までいただき、公的なバックアップも得られています。
この企画進行に当たっては、
東北フォーラム・吉野博理事長(東北大学教授)との
基調的な対談記事も掲載しています。
これからの東北の住まいに求められるものを
先生の端的な指摘で、わかりやすくまとめられたのではないかと思います。
そういった意味もあって、
これまでよりもぐっと身近な関係になったことから
ぜひにとも総会に参加したかった次第です。

総会後は、30名を越えた参加者同士の討論会や
意見交換会が行われ、大震災をめぐっての活発なやりとりが行われました。
議論は、具体的な体験を伴ってのものだったので
大変盛り上がり、その後のパーティー会場でも
そのまま、各参加者のみなさんと、大いに語り合うことが出来ました。
東北フォーラムは、吉野先生の学求的な人柄を反映して
大学や研究機関の研究職のみなさんが多く、
大変興味深いご意見や、知見を伺うことが出来ました。
わたしは北海道の立場もあるわけですが、
やはり東北フォーラムのみなさんとはもっとも親しい関係であるわけで
その断熱重視の建築への立場は、
大いに力強いものと思います。
今後とも、積極的に参加して、協同の力を掘り起こしたいと考えます。
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英賀という土地、神社

2011年05月29日 12時31分39秒 | Weblog







江戸期には、わが家は「阿賀屋」という屋号を名乗っていたということ。
丸にあの字のマークも使っていたのだそうであります。
そういうことで、商家や庄屋を伝統的に営んでいた。
たとえばきのう触れた神埼郡のお宅のように
一国庄屋的な、そういう機能を果たしていたようなのです。
各藩には支配者としての武家がいたけれども、
実質的には、経済は民衆が営んでいた。
江戸期の政治経済は、そういう構造の上に立っていた、といわれます。
さて、民衆の真実の歴史というものは興味深い。

写真は、「阿賀屋(あがや)」という屋号の機縁と言われている
兵庫県の英賀(同じく、あが、と読む)にある神社の本殿建物であります。
英賀神社ということなのですが、
そのキッチュさは、ちょっと信じがたい。
一応、本殿は奥の建物であって、手前側のは、
どうもお神楽でも奉納するときの舞台のようなしつらい。
四面が開放された屋根だけの建築が、本殿手前にくっついている。
しかも、その内部の柱と梁の天井空間は、
たぶん、毎年の奉納と思われる立派な絵馬が、
これでもかと豪華絢爛というように飾り付けられている。
テーマは、それこそなんでもアリであって、
一般的には武家の戦記物が多いようだけれど、
その時代の雰囲気を表すかのように
実にさまざまな絵柄のものがあふれかえっている。
統一的なデザインと言うよりも、まさに素朴な民衆的なパワーが
見るものを圧倒するかのように迫ってくる。
どうも、こういうタイプの神社を見たことは初めてで
まったく圧倒されておりました。
同じく播州出身の家系伝説をお持ちの司馬遼太郎さんの調査記述によれば、
英賀というのは、戦国期には石山本願寺の後方兵站基地的な
本願寺門徒の一大根拠地であったそうなのですが、
どうもそうした雰囲気を感じる宗教施設だなぁと言う実感です。
これは一体どういうことを意味しているのか、
民衆の側から見る歴史というか、民俗について、
大変興味深いテーマになってしまった次第です。
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柳田国男さんとつながるもの

2011年05月28日 06時05分58秒 | Weblog





今回の関西出張の折に
かねてよりの念願であった、わたしの家系伝承の地を見たい、
という思いを一部、叶えることが出来ました。
兵庫県から、広島県に掛けて
長年調べてきていたわが家系の痕跡が残っている場所が点在しています。
まぁ、家系といっても
今日の自身に連なってくる直接のものと、
幾筋か、別れていったそのそれぞれのものに別れます。
概ね、室町の頃からの家系伝承はどうも確からしく思われるのですね。
まぁ、そういうことを証明したい、というのではなく、
それを契機にして、人間の営みの実相を探ってみたい、
変わらない人間の生き様の部分を、追体験したい、という思いです。
そういった思いにしてみると、やはり、自分自身に関係することというのは
興味としては、強い動機になりうる。
なにかを見ても、そういう自己認識を持っていると、
想像力の湧き起こり方が、少し違ってくる。
そういう意味で「欲と道連れ」と思っていると、本来のものに力が加わる。
そんなことを感じながら、歴史的な遺構を見て歩くわけですね。

で、この写真は兵庫県神崎郡の柳田国男さんの生家。
柳田さんは、日本民俗学の創始者というように言われる方です。
この近隣に伝承によるわが家系の家があり、
大庄屋として江戸期を過ごしていたようなのです。
まぁ、こちらは直接のご先祖様ではなく、
戦国の頃に、幾筋かに別れた家系の末裔だといわれているのですが。
で、柳田さんは若い頃に、わが家系の家にあった数百冊の書物を
ずっと読みふけっていられたそうなのです。
その体験が、その後の柳田さんの学業を支えたと言われているのです。
少年・柳田国男さんは、どのように育くまれたのか、
その地域社会のありようとはどんなものだったのか、
瀬戸内海気候の強い陽射しの中で、そんな思いに駆られておりました。
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慈照寺東求堂

2011年05月27日 07時24分11秒 | Weblog







京都出張での見学先のひとつであります。
歴史民俗博物館の日本建築の特集企画では
「日本の木造住宅の原型」とされています。
室町時代後期、ということなのですが、
なぜ、室町期というのは今日に至るさまざまな文化伝統が
そこからスタートしているのか、本当に不思議だなぁと思います。
まぁだいたい500~600年前ということになりますね。
いわゆる「書院造り」や、茶室の初期形態とかが
この建物に集中的に実現されていて、
四畳半という間取りも、ここから始まっているのだとか。
創建者は足利義政ですが、
この足利さんという氏族は、京都という街に大きな文化足跡を残した。
氏族の中興の祖、というか、創業者といった方がふさわしいのか、
足利尊氏という人物から始まって
本当は下野の国の足利市が出身地でありながら、
すっかり京都文化の精緻を体現したような人物を輩出する。
さかのぼれば、八幡太郎義家に出自がある家系であって
そうした武家貴族としての素養を意識していた家系ということなのか。
それまでの貴族層の藤原氏の残した文化遺産と比較して
自省的というか、内省的というか、
現世利益的な部分よりも、精神性に重きを置いたような文化を感じる。
鎌倉という武家権力の剥き出しのリアリズムを踏まえて
王朝文化とは異なる独自性の高い文化を生み出した。
そういったあたり、
近世にまで連なってくる「個人主義」的な萌芽を
感じさせるのかも知れないと思います。
日本人はそこから、戦国に突入しての
信長・秀吉・家康という3大スターのほうに目を奪われてしまうけれど、
生活文化という側面からは、
むしろこの足利将軍家の感受性の方をこそ、
もっと研究した方がいいのではないかと思われますね。
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岩木山・岩手山

2011年05月26日 12時06分21秒 | Weblog





きのうは夜に苫小牧からフェリーに乗船。
本当は八戸に行く便なのですが、
まだ震災の影響で、八戸港がフェリー着岸できない。
そこで青森に目的地が変更になっております。
夜9:15出航で、朝4:45に青森に着岸。
この季節になると、もうこの時間にはお日様はバッチリ出ております。
で、そこから仙台まで東北道、350kmの道中。
前回もだったのですが、
東北中を移動するには、やはりクルマで移動が便利なので
当面はこのようにフェリーでの出張になりそうです。

まぁ、疲れていたので
船の中では出港と同時にスヤスヤと寝入り、
朝3時過ぎ目覚め、ということで6時間くらいは寝て
とても元気よく、しかも朝風呂も海を見ながらで
快適であり、気分良かったのですが、
さすがに長距離運転は堪えますね。
途中、なんどか、睡魔に誘われ、
何回かパーキングで仮眠しながら、11時過ぎに仙台到着です。
天気は大変よかったので、
写真のように、岩木山・岩手山が綺麗に拝めました。
日本列島、北の方には、いくつかの独立的火山が連なります。
北海道では、羊蹄山、道南の駒ヶ岳があって、
東北にはいると、この2つの山に出会うことになる。
大きい山というのは、ひとのこころにどんな影響をもたらすものなのか、
津軽の太宰治や、岩手の宮沢賢治など、人物を想起してみますが、
どうも明確にはイメージが湧いてこない。
でも一時期は、大きな山にはひとを「原理的に考えさせる」力があるのでは
などと、証明不能な想念にとりつかれてもおりました。
たまたま、岩手の人や、津軽の人に
そういったイメージを持っていたのですね。
どうなんでしょうか? 風土の人物論、難しいかなぁ?
っていうような次第で、今週末は仙台での用事であります。
ではでは。
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緑を「縁取る」

2011年05月25日 05時03分37秒 | Weblog






写真は、京都での見学先、大徳寺龍源院玄関先の様子。
知人から、龍安寺石庭とはまた違った禅の庭園と知らされて、ということで
見学に訪れました。
まぁ、きっかけはそういうことですが、
やはり、京都の街を歩く楽しみは
積層された木造建築群の民族的デザイン感覚を浴びること。
ちょうど、修学旅行シーズンで、
「わぁ、すごい、チョーいい!」とかという、
若々しい感受性の歓声を浴びるように聞くのも、
日本的風景のひとつにもなっているのでしょうね(笑)。
大いに若い人たちも感覚して欲しいなぁと思いますね。
京都が、そのような修学旅行のメッカになって、
大多数の日本人が若い時期に訪れるように教育がされるようになってから、
たぶん、明治以降100年以上経っているのでしょうね。
このような民族的教育体験というものが、
日本人にどんな変化と、精神的痕跡を造形しているのか、
一度調査してみる必要はあるかも知れませんね。
確実に言えることは、
このような民族的木造デザイン感覚を共有していること。
たとえば、この写真でわたしは、緑の室内への取り込みについて
屋根の大きな日本建築の内部の特徴である暗さと、
床面の木に手入れをすることで
黒く磨き上げられた鏡面が得られ、それに四季折々の外部風景、
この時期であれば新緑が取り入れられていることが見て取れる。
こういう空間性、美的感覚に、
心の襞の隅々が満たされていくような感覚を覚えざるを得ない。
こういう緑に対する「縁取り」は、
緑を愛でるこころにとって、演出装置としてすばらしい。
金閣を引き立てる池の水の映り込みのように、
こういう美の反響装置を、どうも日本人は目的的に心がけてきた。
庭に面した木の床面を米糠等も使って磨き上げるということを
日常生活習慣にしてきたという
そういった文化を持っている。
家の手入れをする、ということの目的の中に
こういった感性を楽しむという側面もきわめて重要な要素だったのだろうと
そんなふうに思われます。

ただ、
最近の日本住宅から、こういった感受性の部分が
どんどん鈍磨してきていると感じるのも、
これもまた、事実ではありますね。
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新住協総会2011_3

2011年05月24日 05時31分05秒 | Weblog






新住協の加盟工務店は、どんどん温暖地域、
関西から中国四国、さらに九州へと拡大しています。
なんと、来年の総会開催地は広島県に決定しました。
まだ少人数とはいえ、高断熱高気密の住宅技術で、夏の蒸暑に立ち向かおうという
そういったビルダーさんが確実に増えていっています。

そうなってくると、
本格的に蒸暑地域・温暖地域での夏期対策が論議されていかなければならない。
断熱を基本として、日射遮蔽の技術がより大きな要素を占めることになる。
しかし、一方で、この写真の関東以南地域での住宅雑誌記事のように
「断熱よりも・・・」という表現も見られる傾向には、
さてどうなのでしょうか、と思わざるを得ない。
また、冷房付加の計算ソフトなどで、
断熱を厚くしていくと、むしろ熱計算上は冷房のエネルギーが上がるように
そういう計算結果が出るようになっているとも聞きました。
詳細についてはわからないので、うかつには書けないのですが、
しかし、暑い地域で屋根に断熱をしないでいいわけはない。
また、札幌などでも最近は暑い夏が来ますが、
実感としては、断熱がしっかりしている住宅ほど、夏も涼しい。
もちろん、いったん室内温度が上昇しすぎると
それを温度低下させるのは、難しいとも言われるけれど、
日射を遮蔽して、夜間の冷気の室内導入などを心がけると
驚くほどひんやりとした室内環境が実現する。
そういった生活実感を持っているので、断熱が優先しないなどありえない
というように思っています。

今後、こういったことについて、
正しい理解と、常識が見えるようになることを期待したいと思っています。
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新住協総会2011_2

2011年05月23日 05時19分19秒 | Weblog





きのう朝、5日間にわたった出張から札幌帰還。
その足で、スタッフの結婚式に出席。
ややお疲れモードであります。
ふ~~~。

ことしの新住協総会は、
鎌田紀彦先生の恩師・内田祥哉先生の講演が行われたのが特徴でしょう。
東大工学部を卒業後、
内田ゼミの学院性として研究してきた鎌田紀彦先生は
いわば、日本の建築工学の本流的な立場。
そうでありながら、当時、日本で初めて「建築システム工学」
という専門学科を開いた室蘭工業大学にパイオニアとして
赴いたという経緯だったそうです。
鎌田先生は、東大での研究生時代には、
そのころ、国の建築行政の諮問委員を多数引き受けられていた
内田先生の右腕的に活躍され、
若いながら、多くの国の諮問委員を前によく発表されていたそうです。
室蘭工大に赴任後は、
北海道が抱えてきた寒冷地住宅の建築工法研究に身を捧げられ、
「高断熱高気密」住宅技術を具体的、実践的に工法開発されました。
こういった研究者を地域として迎え入れられたのは
北海道という地域にとって、きわめて大きい出来事だったのだと思います。
そして、鎌田先生は同時に
日本全体の建築学会の中でも、きわめて特異に
現場に精通した研究者であるとも言われています。
内田先生にお話を伺っても、この点を大きく強調されておられました。
これは、鎌田先生の人柄の成せるものだったのかも知れません。
常にアカデミズム的な対応をよしとせず、
むしろ現場大工さんに気軽に接触されて
その現場工学的な部分での研究開発を最優先されてきたと思います。
だから「先生の話を聞いたら、どうやって釘を打ったらいいかがわかる」
というように、多くの全国の工務店さんたちが口を揃えます。
これこそが、鎌田紀彦先生の工学者としての真髄なのだろうと、思われます。
そしてそのことをもっとも評価される内田先生のお人柄から、
この師匠にしてこの弟子が、というように感じられます。

このように成立してきた北海道の「高断熱高気密」運動というものが、
日本の建築工学の歴史においてもきわめて特異で意義深い1ページであると、
強く感じられた今回の新住協総会でした。
<写真は、内田先生のお話からの1カット>
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先斗町の道幅

2011年05月22日 05時35分30秒 | Weblog






京都といえば、先斗町ですね。
鴨川での納涼床も、先斗町の店が一番有名なのでしょう。
歓楽街の名称としては、代表的な名前ですが、
行ってみれば、道幅は本当に狭くてびっくりする。
左右に店が軒を重ねていて、この狭い小路を多くの人が肩を接しながら練り歩く。
先斗町の本質的なものはこの小路性にあるのでしょうね。
京都の街が生み出した文化に
「茶室文化」があります。
どうしてああいった「狭さ・小ささ」を強調して
そのなかでデザインの工夫をやっていくのだろうか、と
いつも不思議な思いをする。
ああいう文化性って、外国にはあるのだろうか、
と、いつも考えるけれど、モロッコのイスラム都市フェズなどを想起する程度。
やはり欧米的価値観世界では、少ないように思う。
ましてや、建築空間性において目的的に追求しているというのは
本当に稀有ではないかと思う。
この先斗町の小路性は、やはり茶室文化に行き着く部分なのだろうか。
その昔、狭い町家の中庭の小空間に、
さまざまな世界性を表現した遊びの精神が
こういう茶室文化の原型なのでしょうが、
先斗町にも、そういった感受性が生きていると思います。
どちらも、人と人との交流とか対話の文化に機縁している。
そのように考えるとき、先斗町が
京都を代表する飲食店街に成長していった部分が見えるのでしょう。
狭さの中で、さまざまな空間的演出をこれでもかと見せつけられる。
狭くすることで、想像力は逆に極限まで高められる。
象徴性への感受力が大いに高まっていくと思います。
空間を表現する要素についての、共通認識が細やかに成立していく。
寸法を小さくすることで、
こういう感受性を磨き上げていこうというのは、
やはり、こういった京都の「都市文化」の賜物だと思います。
そこで展開している、ものの「表徴性」
あるいは、コミュニケーションの繊細さについて
腑分けしていくと面白い文化論になるのではないかと思います。
あるいは、誰か、もうやっているのかなぁ。
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