ロビンソン本を読む

本とデザイン。読んだ本、読んでいない本、素敵なデザインの本。

狩場の悲劇

2024-02-07 15:57:08 | 読書
 アントン・チェーホフ『狩場の悲劇』



 カバーに描かれた赤いワンピースの女性を見て思う。

 どうして彼女とはうまくいかなかったのかと。

 お互いに好きで、あんなに楽しい時間を過ごしたというのに。

 
 読み進めていくうちに、これが新聞社に持ち込まれた素人作家の小説だという設定を忘れてしまう。

 作者でもある語り手の予審判事は、森の中で不意に出会ったオーレニカに恋をする。

 美しいブロンドの髪と善良そうな碧い眼をした19歳の女性。

 けれども彼女には婚約者がいた。


 「前人未踏の大トリック」

 帯の惹句で、これがミステリーだと知っているが、事件はなかなか起きない。

 事件は起きないけれども、複雑な登場人物たちの関係と、彼らの心情を読んでいるだけでとても面白い。


 あれ、犯人わかったかもしれない。

 急激な展開の中、なんとなく気づいてしまう。

 しかし、持ち込まれた原稿を読んでいる新聞社の編集者がつけた注釈には、犯人を示唆する部分があって、ここを同時に読んでしまうと、この小説、何がトリックなのかわからなくなってくる。

 
 1884年に書かれた古い小説だが、さすがチェーホフ。


 装画は10⁵⁶、装丁は中央公論新社デザイン室。(2024)


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影を呑んだ少女

2024-01-25 16:20:21 | 読書
 フランシス・ハーディング『影を呑んだ少女』



 幽霊が出てくる物語は、夜中にトイレに行けなくなるほど怖いものより、トイレで思い出し笑いをするくらいコミカルな方がいい。

 『影を呑んだ少女』に登場する幽霊は、かなり恐ろしいけれど、少し可愛かったりもする。この小説を読んだ後でも、ぼくは1人でトイレに行ける。


 舞台は17世紀のイギリス。

 石炭の噴煙に覆われた小さな町に暮らす10歳の少女メイクピースは、母と2人、おじ家族の世話になっている。

 ある夜、母はメイクピースを古い墓地へ連れて行き、不気味な礼拝堂に彼女を閉じ込める。

 耳元でうなり、泣く、死者のささやく声が彼女を苦しめる。頭をこじ開けようとしているのが感じられる。彼女は必死に耐える。

 その責苦は毎月課せられる。

 母が何を望んでいるのかメイクピースには理解できず、母を恨むようになる。

 ここの霊たちなど序の口に過ぎないことを、その時のメイクピースはまだ知らない。


 タイトルの「影を呑む」とは、霊を体内に取り込むこと。

 メイクピースは、父から受け継いだ体質で霊を体に入れることができる。

 憑依させるのとはちょっと違い、霊と同居するような感じだ。

 彼女は、先祖たちの死にそこなった霊達を入れる器として、亡くなった父の屋敷に迎え入れられる。

 やがて、イギリスを二分する戦いに巻き込まれていくメイクピース。

 彼女は、霊に支配されない自分自身の人生を生きようと戦っていく。


 壮大な展開の中で、少しずつ逞しく強くなっていく少女の姿が魅力的だ。


 装画は牧野千穂氏、装丁は大野リサ氏。(2024)


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ピュウ

2024-01-14 15:52:41 | 読書
 キャサリン・レイシー『ピュウ』



 この不穏な雰囲気はどこから生まれるのだろう。

 帯を外してカバーだけにすると、狂気すれすれの不吉さを感じてしまう。

 デザインを担当したLuke Birdのサイトには、英語版の書影がある。

 日本語の入っていない、さらにシンプルな作りの表紙には、どういうわけか禍々しさが感じられない。ただ美しい。

 日本語の書体が忌まわしさの一因になっているのか。

 よく見ると可愛らしさもある書体だけれど、「ピュウ」という聞き慣れない単語が、得体のしれない不気味なものを連想させてしまうのかもしれない。


 「ピュウ」とは、教会の信者席のこと。

 ある日、そこで保護された人物を、小さな町の人たちは「ピュウ」と呼ぶようになった。

 語り手でもあるピュウは、自分自身でさえどこから来たのか、自分が誰なのかわからない。

 記憶喪失のホームレスのようで、きっと町の人たちには保護しなくてはと思わせる何かがあったのだろう。

 親切な町の人たちは、ピュウに個人的なことを尋ねる。

 性別さえはっきりしないピュウは、信仰に篤い人々にとっては不安を生む人間でしかない。

 そこには、善行を施す相手のことは知っておきたい、知る権利があるという傲慢も感じられる。

 何も語らないピュウの存在以上に、少しずつ剥き出しになっていく人々の心のうちの方が、ぼくには不気味だ。


 装丁はLuke Bird。(2023)


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はなればなれに

2023-12-28 16:39:18 | 読書
 ドロレス・ヒッチェンズ『はなればなれに』



 新潮文庫の海外名作発掘シリーズは、帯に小さなロゴが入っている。

 ほかの文庫本との違いはそこだけだ。

 版元のHPを見ると、いままで翻訳されたことのないエンタメ小説という緩いくくりらしい。

 そこに「古い」は入っていないが、執筆されてからある程度年月が経っているからこそ「発掘」なのだろう。


 この小説は、1958年にアメリカで出版された。

 それが今年初めて翻訳された。

 65年間どこに隠れていたのだ?

 これほど面白い小説が、誰にも気づかれず放置されていたことに驚く。


 前科のある22歳のスキップとエディは、手に職をつけるため学校に通っている。

 しかし、スキップは短絡的な考え方しかできず、犯罪行為に対して躊躇がない。

 大金の匂いを嗅ぎつけると、エディと17歳の少女カレンを巻き込み、未亡人宅へ押し入る計画を立てる。

 穴だらけの計画は、やがてプロともいえる犯罪者の知るところとなり、若僧のスキップは弾き出されてしまう。スキップは反発し、裏をかこうとするのだが。


 ほぼ理解不能のスキップに対して、エディとカレンの心の動きには、時に歯痒く時に同情し、2人の成り行きを見守る。


 タイトルの『はなればなれに』は、この小説を原作としたゴダールの映画タイトルと同じで、原題の『Fool’s Gold』とは雰囲気が違う。

 犯罪小説としては似つかわしくないが、感情の絡みが見える『はなればなれに』は、この小説にはぴたりと合っていると、読後感じるのだった。


 装画はQ-TA、装丁は新潮社装幀室。(2023)


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ホープは突然現れる

2023-12-18 17:26:06 | 読書
 クレア・ノース『ホープは突然現れる』



 この物語には悲しさが充満している。

 それは主人公の孤独が原因だ。

 普通の孤独ではない。

 ありえない絶望的な孤独。

 
 主人公ホープは、クレア・ノースの小説に共通する特異体質の人。

 彼女は人から忘れられてしまう。

 忘れられる時間はだんだん早くなり、30秒も彼女から目を離せば、容貌だけでなく存在そのものを忘れられてしまう。

 親からも忘れられてしまう場面は、読んでいて衝撃が大きい。

 家に見知らぬ他人がいると思われ、ホープは家を出ざるをえない。


 人との永続的な関係を築くことができない。

 学校、職場という人の集まりに属することができない。

 彼女の存在が確かなのは、ネットの中だけだ。

 文字の記憶は人から消えることがない。

 
 彼女は一度だけ、同じ体質の男に会ったことがある。

 自分が相手のことを忘れてしまうのだ。

 しかし再会した時、彼は人から記憶される人間になっていた。

 彼が受けた「治療」の仕組みを知りたい。

 人に覚えてもらえる体になりたい。

 ホープは、その「治療」に行き着くための自己改革アプリのデータを盗み出す。

 完璧な人生を提示するというアプリは、世界を画一的な人間ばかりのグロテスクなものに変えようとしていた。


 ホープのことを忘れない唯一の人がいる。

 それは、遠くに見える小さな灯りのように、彼女に希望を与えはしないのか。

 少なくともぼくには、その人との触れ合いは、束の間、正気に戻れる場面なのだった。


 装画は榎本マリコ氏、装丁は大原由衣氏。(2023)



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