古井由吉『蜩の声』
古井氏が亡くなった。
未読だった本を手に取った。
8つの短編集。
最初の1編。
この感じ、なんだか落語のようだ。
「聞いて、ねえ、聞いてよ、」と始まり、一息に7行、歯切れよく語られるそのリズムに、惚れ惚れする。
次の1編。
これは、エッセイだろうか。
「背後からつぶやきがもれた。」
突然、小説の様相を帯びる。
しかしその後も、現実と小説の間を漂いながら、生と死について語り続ける。
表題作『蜩の声』。
家のテラスの表は霧の籬(まがき)とあり、山深い一軒家に住んでいるのかと思いきや古いマンションで、改修工事のため、外壁が白い幕で覆われている。
古井氏本人と思しき老齢の作家が住んでいる。
工事の、壁を穿つドリルの音から、子供の頃に聞いた都電の音、襖一枚隔てた隣人の声、町工場の音へと流れていく。
漂う感覚が心地良い。
いまどこにいるのだろう。
テラスの椅子に座っていたのではなかったか。
さらに、合間に挟まれる誰か、知人の言葉、体験が、ぼくの混乱を広げる。
ときおり、白い幕の中にいることを思い出させてくれるのだが、外界との境がぼんやりしているのを、さらに感じさせる。
突如、すぐ外から響く蜩の声に、幼年の経験からくる異臭を思い出し、戦時中に見た取り壊されていく家屋、崩れ落ちるときの 轟音 埃 後の静まり返り 幼年の記憶の中に、ぼくは取り残される。
装丁は菊地信義氏。(2020)