「一神教 Vs. 多神教」 岸田 秀著、新書館 2002年。
9.11後の世界で一神教についてたくさんの本が書かれましたが、これもその一つです。氏はセム的一神教をひとくくりにしています。キリスト教は愛の宗教ではないとか、多神教は一神教に負ける、とか独自の見解はなかなか参考になります。
しかし、イスラムのほうがキリスト教よりも、いつそう高度というか純粋だった…エリアーデによると、「ムハンマドの教えは、絶対一神教のもっとも純粋な表現を示している」(223p) ということに賛同しています。しかし私は、「イスラムは純粋だ」とかいう言い方は間違っていると思う。純粋なのではなく、極論に過ぎない。一神教としては、というが、いわば狂気的な極論に過ぎない。
「イスラム教にはいわゆる因果関係がない」「イスラム教は、世界がその一瞬一瞬、神によって作られていくという発想」なんだといいます (224p)。エリアーデによれば、「アッラーの行為はすべて自由なもの、究極的には恣意的なものである。アッラーは自己矛盾を犯す自由さえ持っている。」(223p) これでは科学的な因果関係や科学的法則など研究しても無駄なことです。イスラム世界で科学が停滞してしまったのは当然のことにすぎません。こうしたイスラム教が、どうして純粋なのか、高度なのか。純粋なるがゆえに誤ったのか? 因果関係すら存在しないのでは、狂気の教えというべきでしょう。
また偶像否定の極致として、絵画さえほぼ根絶状態です。デザインは優れているとか言い訳しますが、それはそれです。2万年前のラスコー壁画は人類が人類らしい精神文化を初めて発露させたものと考えられていますが、イスラムはもともと人間に備わった精神性・芸術性を否定してしまった。アッラーにとっては人間の精神性などどうでも良いので、ただ自分に絶対服従させることだけがお望み、というわけです。人間はそんなアッラーの奴隷に過ぎない。なんと情けないことでしょう。人情の自然に反する教えです。
人が救済されるかどうかはアッラーの胸先3寸、どんな善行を行っても、どんな悪行を重ねても、すべてはインシャラー、神の思うままだというのがイスラムです。原理主義はムハンマドの教えに忠実にしようというだけのこと、もともとの教えが狂気であり、捕虜の虐殺、奴隷として売り払い、多神教徒の皆殺し、などは聖典に公認されています。その教えは今となっては古臭く、人間精神の抑圧装置になっている。神の姿を描くことは死罪。ムスリムに生まれたら否応なくムスリムで、しかも、棄教や改宗の勧めは死罪に値するというイスラムはカルトそのものです。
真のムスリムは原理主義と戦うべきです。原理主義を克服しなければなりません。原理主義に反対する行動を起こし、被害者の救済に励むとか、やり方はいろいろあるはず。そうでなければ彼らと同じとみられても仕方ありません。ムスリムは危険だ、と言われても反論できないはずです。これは偏見でしょうか。そうではなく、論理的結論です。
ご意見があればお寄せ下さい。
9.11後の世界で一神教についてたくさんの本が書かれましたが、これもその一つです。氏はセム的一神教をひとくくりにしています。キリスト教は愛の宗教ではないとか、多神教は一神教に負ける、とか独自の見解はなかなか参考になります。
しかし、イスラムのほうがキリスト教よりも、いつそう高度というか純粋だった…エリアーデによると、「ムハンマドの教えは、絶対一神教のもっとも純粋な表現を示している」(223p) ということに賛同しています。しかし私は、「イスラムは純粋だ」とかいう言い方は間違っていると思う。純粋なのではなく、極論に過ぎない。一神教としては、というが、いわば狂気的な極論に過ぎない。
「イスラム教にはいわゆる因果関係がない」「イスラム教は、世界がその一瞬一瞬、神によって作られていくという発想」なんだといいます (224p)。エリアーデによれば、「アッラーの行為はすべて自由なもの、究極的には恣意的なものである。アッラーは自己矛盾を犯す自由さえ持っている。」(223p) これでは科学的な因果関係や科学的法則など研究しても無駄なことです。イスラム世界で科学が停滞してしまったのは当然のことにすぎません。こうしたイスラム教が、どうして純粋なのか、高度なのか。純粋なるがゆえに誤ったのか? 因果関係すら存在しないのでは、狂気の教えというべきでしょう。
また偶像否定の極致として、絵画さえほぼ根絶状態です。デザインは優れているとか言い訳しますが、それはそれです。2万年前のラスコー壁画は人類が人類らしい精神文化を初めて発露させたものと考えられていますが、イスラムはもともと人間に備わった精神性・芸術性を否定してしまった。アッラーにとっては人間の精神性などどうでも良いので、ただ自分に絶対服従させることだけがお望み、というわけです。人間はそんなアッラーの奴隷に過ぎない。なんと情けないことでしょう。人情の自然に反する教えです。
人が救済されるかどうかはアッラーの胸先3寸、どんな善行を行っても、どんな悪行を重ねても、すべてはインシャラー、神の思うままだというのがイスラムです。原理主義はムハンマドの教えに忠実にしようというだけのこと、もともとの教えが狂気であり、捕虜の虐殺、奴隷として売り払い、多神教徒の皆殺し、などは聖典に公認されています。その教えは今となっては古臭く、人間精神の抑圧装置になっている。神の姿を描くことは死罪。ムスリムに生まれたら否応なくムスリムで、しかも、棄教や改宗の勧めは死罪に値するというイスラムはカルトそのものです。
真のムスリムは原理主義と戦うべきです。原理主義を克服しなければなりません。原理主義に反対する行動を起こし、被害者の救済に励むとか、やり方はいろいろあるはず。そうでなければ彼らと同じとみられても仕方ありません。ムスリムは危険だ、と言われても反論できないはずです。これは偏見でしょうか。そうではなく、論理的結論です。
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