古城址に 河北の花と
大西山の 丘辺に立てば
山はみどりに 潟ひらけたり
わが学び舎 ここに立てり
(津幡小学校校歌より)
前回の投稿では、正面から写した画像を掲載したが、
裏側…グラウンド側から眺めてみると、小高い位置にあることがよく分かる。
大西山の標高はわずか15メートルながら、
町の中心にあり、北国街道を見下ろす絶好のビューポイント。
かつて、ここに城が築かれたのも納得できる。
寿永2年(1183)、源平倶利伽羅峠の一戦を前に、平家軍が陣を張った。
建久元年(1190)、加賀井上庄の地頭都幡(津幡)隆家が居城した。
天正4年(1576)、上杉謙信が越中から入って七尾平定の足掛かりとした。
その後、一向一揆衆が立てこもる砦になった。
天正11年(1583)、前田利家が支配すると、弟の前田秀継に守らせた。
天正12年(1584)、佐々成政が末森城を攻撃した時、利家は津幡城で軍議を開いた。
やがて、戦国の世が終ると廃城となり、
明治20年(1887)、学び舎が建った。
戦とは縁遠くなったはずの大西山だが、平地の中にある見晴らしのよさが災いし
太平洋戦争中には「防空監視所」が設置され、B29の襲来を見張ったそうである。
そして、ようやく訪れた平穏。
だが、この校舎に残された時間は、あと僅か。
老朽化により、丘の下、スカール跡地に立て替え工事が進行中。
見慣れた景色が無くなる日も近い。
大西山の 丘辺に立てば
山はみどりに 潟ひらけたり
わが学び舎 ここに立てり
(津幡小学校校歌より)
前回の投稿では、正面から写した画像を掲載したが、
裏側…グラウンド側から眺めてみると、小高い位置にあることがよく分かる。
大西山の標高はわずか15メートルながら、
町の中心にあり、北国街道を見下ろす絶好のビューポイント。
かつて、ここに城が築かれたのも納得できる。
寿永2年(1183)、源平倶利伽羅峠の一戦を前に、平家軍が陣を張った。
建久元年(1190)、加賀井上庄の地頭都幡(津幡)隆家が居城した。
天正4年(1576)、上杉謙信が越中から入って七尾平定の足掛かりとした。
その後、一向一揆衆が立てこもる砦になった。
天正11年(1583)、前田利家が支配すると、弟の前田秀継に守らせた。
天正12年(1584)、佐々成政が末森城を攻撃した時、利家は津幡城で軍議を開いた。
やがて、戦国の世が終ると廃城となり、
明治20年(1887)、学び舎が建った。
戦とは縁遠くなったはずの大西山だが、平地の中にある見晴らしのよさが災いし
太平洋戦争中には「防空監視所」が設置され、B29の襲来を見張ったそうである。
そして、ようやく訪れた平穏。
だが、この校舎に残された時間は、あと僅か。
老朽化により、丘の下、スカール跡地に立て替え工事が進行中。
見慣れた景色が無くなる日も近い。