つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

大西山の景色

2010年05月16日 21時44分33秒 | 日記
古城址に 河北の花と
大西山の 丘辺に立てば
山はみどりに 潟ひらけたり
わが学び舎 ここに立てり
(津幡小学校校歌より)

前回の投稿では、正面から写した画像を掲載したが、
裏側…グラウンド側から眺めてみると、小高い位置にあることがよく分かる。
大西山の標高はわずか15メートルながら、
町の中心にあり、北国街道を見下ろす絶好のビューポイント。
かつて、ここに城が築かれたのも納得できる。

寿永2年(1183)、源平倶利伽羅峠の一戦を前に、平家軍が陣を張った。
建久元年(1190)、加賀井上庄の地頭都幡(津幡)隆家が居城した。
天正4年(1576)、上杉謙信が越中から入って七尾平定の足掛かりとした。
その後、一向一揆衆が立てこもる砦になった。
天正11年(1583)、前田利家が支配すると、弟の前田秀継に守らせた。
天正12年(1584)、佐々成政が末森城を攻撃した時、利家は津幡城で軍議を開いた。

やがて、戦国の世が終ると廃城となり、
明治20年(1887)、学び舎が建った。
戦とは縁遠くなったはずの大西山だが、平地の中にある見晴らしのよさが災いし
太平洋戦争中には「防空監視所」が設置され、B29の襲来を見張ったそうである。
そして、ようやく訪れた平穏。
だが、この校舎に残された時間は、あと僅か。
老朽化により、丘の下、スカール跡地に立て替え工事が進行中。
見慣れた景色が無くなる日も近い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

町の木は、松。

2010年05月16日 21時16分51秒 | 日記
やはり、津幡町のHPを見て町木が「松」だと知った。
その説明文には、次のように書かれている。

『(松は)日本を代表する常緑性の高木で、古来より神の宿る神聖な樹木、
 長寿の象徴として尊ばれています。
 町内の至るところに成育しており、公募により町木に選ばれました。』

大西山の古城址に建つ津幡小学校。
その校舎正面に茂っているのが松の木だ。
おそらく僕が子供の頃と比べて、
それほど成長したようには思えないから不思議だ。
記憶の中にある「坂の上の松」。
30数年前も、同じ景色を見上げて登校していたように感じる。
針のような葉を抜くと、あの頃と変わらない鼻孔を刺激する独特の匂いがした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする