実家の近所、国道沿いには「本多食堂」があった。
正確に言えば、建物はまだ残っているが機能はしていない。
先日、散歩の折、改めて正面入口を見てみると、張り紙があった。
そこには、長年商売を続け、地域に世話になった旨と感謝の気持ちが綴られていて、
また、営業停止の理由として、土地買収による製麺所の閉鎖が挙げられていた。
日付を見ると、割と最近まで営業していたようだが、
果たして、どのくらいの人が利用していたのだろう?
何度か出前もしてもらった事もあったように思う。
確か「きつねうどん」とか「カツ丼」や「ラーメン」を食べたはずだ。
残念ながら、その味の記憶は殆どない。
ただ、とても嬉しかった記憶はある。
出前の兄ちゃんが、カブの荷台から「岡持ち」を降ろし、
ラップがかかった丼を出す仕草を嬉々として見ていたものだ。
普段の食事が不味かった訳ではないが、祖母や母親以外の人…
曲がりなりにもプロが作った料理なんて、滅多に口にできなかった。
実家の仕事が立て込んでいたり、旅行・出張などで片親が不在だったり、
グッドタイミングがないと「店屋物」は口にできなっかった。
今でこそ「ココイチ」とか「8番」とか「スガキヤ」「ケンタ」「マック」など
津幡町でも色んなメニューを気軽に口にできるが、当時、30年前は何もなかった。
「本多食堂」は貴重な存在だったのである。
今思えば、ラップの内側に水滴が付いた様子や、
メニューの湿気による岡持ちの木の匂い、
プンと鼻をくすぐるカツオ出汁の香りなどは、昭和の光景だった。
正確に言えば、建物はまだ残っているが機能はしていない。
先日、散歩の折、改めて正面入口を見てみると、張り紙があった。
そこには、長年商売を続け、地域に世話になった旨と感謝の気持ちが綴られていて、
また、営業停止の理由として、土地買収による製麺所の閉鎖が挙げられていた。
日付を見ると、割と最近まで営業していたようだが、
果たして、どのくらいの人が利用していたのだろう?
何度か出前もしてもらった事もあったように思う。
確か「きつねうどん」とか「カツ丼」や「ラーメン」を食べたはずだ。
残念ながら、その味の記憶は殆どない。
ただ、とても嬉しかった記憶はある。
出前の兄ちゃんが、カブの荷台から「岡持ち」を降ろし、
ラップがかかった丼を出す仕草を嬉々として見ていたものだ。
普段の食事が不味かった訳ではないが、祖母や母親以外の人…
曲がりなりにもプロが作った料理なんて、滅多に口にできなかった。
実家の仕事が立て込んでいたり、旅行・出張などで片親が不在だったり、
グッドタイミングがないと「店屋物」は口にできなっかった。
今でこそ「ココイチ」とか「8番」とか「スガキヤ」「ケンタ」「マック」など
津幡町でも色んなメニューを気軽に口にできるが、当時、30年前は何もなかった。
「本多食堂」は貴重な存在だったのである。
今思えば、ラップの内側に水滴が付いた様子や、
メニューの湿気による岡持ちの木の匂い、
プンと鼻をくすぐるカツオ出汁の香りなどは、昭和の光景だった。