度々参加してきた【gooブログ「お題」投稿】。
本日がキャンペーンの最終日という事で、最後に選んだテーマは、
「ビートルズで好きな曲は?」。
答えは「I WANT TO HOLD YOUR HAND」。
本国・イギリスでは5枚目のシングルだったが、
日本では、昭和39年(1964年)2月5日にデビュー盤として発売された。
つまり、この国とのファーストコンタクトを飾った記念すべきナンバーである。
当時ヒットチャートに登っていたのは、
ああ上野駅/井沢八郎、あゝ青春の胸の血は/舟木一夫、
アンコ椿は恋の花/都はるみ、幸せなら手をたたこう/坂本九。
洋楽でも、アイドルを探せ/シルビィ・バルタン、花はどこへ行った/キングストン・トリオ、
ラスベガス万才/エルビス・プレスリー、シェルブールの雨傘(映画音楽)など。
そんな牧歌的ラインナップの中に、突如、現れたダイナミックなイントロ!
「レノン=マッカートニー」のユニゾンにCLAP(手拍子)を重ねた歌い出し!
美しいハーモニーと、正確で大胆なリズム!
充分に五月蝿く、刺激に溢れたサウンドに与えられた邦題が「抱きしめたい」!
…ラジオから初めて流れた時、
文字通りの「衝撃」だったであろう事は想像に難くない。
それからおよそ3年が経った、昭和41年(1966年)4月27日。
読売新聞の朝刊に、一種の【宣戦布告】が掲載された。
『読売新聞社は、協同企画、中部日本放送と協力して、本年6月、
現在世界で最も人気のあるボーカルグループ「ザ・ビートルズ」一行4人を招き、
極東で初めての演奏会を開催する事としました。
我が国音楽界最大の話題であり、音楽愛好家にとっては、
まさに千載一遇の機会であります。ご期待下さい。』
この記事をキッカケに、日本がにわかに騒がしくなる。
会場になった日本武道館の外の警備を担当する「警視庁」では、
会議室にレコードを持ち込み、神妙な面持ちで耳を傾けながら、空前の警備計画を練った。
次に、会場内部を任された「消防庁」は、
2階席からメジャーを垂らしてダイブする距離を計る女性ファンを目撃して、決死の覚悟を固めた。
プラチナ・チケットの入手方法は、企業協賛分を除くと、葉書による抽選販売。
主催者は、集った20万人以上の入場希望者の中から、3万人あまりを選出し、
全てのチケットに手作業でナンバリング。
やがて喧騒は、街中からマスコミ、国会へと飛火して、社会現象に発展。
そして、深夜の羽田空港に「ビートルズ」が上陸。
決戦の日がやって来たのだ!
見る側、招く側、両者の戦場になった日本武道館とは、
実は演る側~「ザ・ビートルズ」の4人にとっても同じ意味を持っていた。
過去に彼等が演奏したのは、ヨーロッパとアメリカ、イギリス領・香港など、
「英語を理解する」観客の前だけだった。
来日も初めてなら、言葉の通じない大観衆を相手にするのも未知の領域。
また、宿泊先から会場へ向かう沿道や、客席の最前列に、
自分達をガードする警官隊が直立不動で並ぶ異様な風景は、嫌が上にも不安を煽った。
しかし心配は、程なく取り越し苦労に変わる。
何しろ「ロックンロール・ミュージック」から「アイム・ダウン」まで、
全11曲のステージは、絶叫に包まれたままだったから…。
たった3日間の来日公演以降、二度と訪日は叶わなかった「ビートルズ」。
短くとも、遺したものは絶大だった。
合計5回のパフォーマンスの観客動員は、日本新記録の5万人強。
警備に当たった警官の数はのべ9,000名近く。
実施費用は当時のレートでおよそ1億円。
補導された少年少女は6,500名以上。
どれも過去に例を見ない数字ばかり。
結果、音響、ステージ装飾、チケット販売、警備のやり方など、
現在のエンターテイメントの運営方法の基礎が築かれた。
また、大規模なコンサートが企業の販促に貢献するツールとして認知され、
流通の仕組みにも、新たな一石を投じたのである。
「ビートルズ」が日本に刻んだ103時間は、文字通りのエポックメイキング。
その最初の一歩が「I WANT TO HOLD YOUR HAND」だった。
彼らの登場まで、演奏者自身の手によるソングライティングは稀なケース。
作り手と担い手の分業制が普通だった音楽の現場において、
自作自演のオリジナル・ヒットを連発したのは「ビートルズ」が初めて。
メンバー全員が楽器を演奏しながら歌うというスタイルも、斬新。
また、シングル・リリース中心の音楽市場で、
より芸術性の高いアルバムによる展開を始めたのは「ビートルズ」が元祖。
何もかもが新鮮な驚きに満ちていた。
リバプールの元不良少年達…「ジョン」「ポール」「ジョージ」「リンゴ」は、
ポップミュージックのOSを刷新したと言って過言ではない。
優れた発明・発見によって讃えられる偉人は大勢いるが、
このスーパーグループも、間違いなく同じカテゴリーに分類されるだろう。
そして先ごろ、その扇の要だった人物が鬼籍に入った。
「サー・ジョージ・マーティン」、平成28年(2016年)3月9日没。享年90。
ご冥福を心からお祈りし、拙文の結びとします。
本日がキャンペーンの最終日という事で、最後に選んだテーマは、
「ビートルズで好きな曲は?」。
答えは「I WANT TO HOLD YOUR HAND」。
本国・イギリスでは5枚目のシングルだったが、
日本では、昭和39年(1964年)2月5日にデビュー盤として発売された。
つまり、この国とのファーストコンタクトを飾った記念すべきナンバーである。
当時ヒットチャートに登っていたのは、
ああ上野駅/井沢八郎、あゝ青春の胸の血は/舟木一夫、
アンコ椿は恋の花/都はるみ、幸せなら手をたたこう/坂本九。
洋楽でも、アイドルを探せ/シルビィ・バルタン、花はどこへ行った/キングストン・トリオ、
ラスベガス万才/エルビス・プレスリー、シェルブールの雨傘(映画音楽)など。
そんな牧歌的ラインナップの中に、突如、現れたダイナミックなイントロ!
「レノン=マッカートニー」のユニゾンにCLAP(手拍子)を重ねた歌い出し!
美しいハーモニーと、正確で大胆なリズム!
充分に五月蝿く、刺激に溢れたサウンドに与えられた邦題が「抱きしめたい」!
…ラジオから初めて流れた時、
文字通りの「衝撃」だったであろう事は想像に難くない。
それからおよそ3年が経った、昭和41年(1966年)4月27日。
読売新聞の朝刊に、一種の【宣戦布告】が掲載された。
『読売新聞社は、協同企画、中部日本放送と協力して、本年6月、
現在世界で最も人気のあるボーカルグループ「ザ・ビートルズ」一行4人を招き、
極東で初めての演奏会を開催する事としました。
我が国音楽界最大の話題であり、音楽愛好家にとっては、
まさに千載一遇の機会であります。ご期待下さい。』
この記事をキッカケに、日本がにわかに騒がしくなる。
会場になった日本武道館の外の警備を担当する「警視庁」では、
会議室にレコードを持ち込み、神妙な面持ちで耳を傾けながら、空前の警備計画を練った。
次に、会場内部を任された「消防庁」は、
2階席からメジャーを垂らしてダイブする距離を計る女性ファンを目撃して、決死の覚悟を固めた。
プラチナ・チケットの入手方法は、企業協賛分を除くと、葉書による抽選販売。
主催者は、集った20万人以上の入場希望者の中から、3万人あまりを選出し、
全てのチケットに手作業でナンバリング。
やがて喧騒は、街中からマスコミ、国会へと飛火して、社会現象に発展。
そして、深夜の羽田空港に「ビートルズ」が上陸。
決戦の日がやって来たのだ!
見る側、招く側、両者の戦場になった日本武道館とは、
実は演る側~「ザ・ビートルズ」の4人にとっても同じ意味を持っていた。
過去に彼等が演奏したのは、ヨーロッパとアメリカ、イギリス領・香港など、
「英語を理解する」観客の前だけだった。
来日も初めてなら、言葉の通じない大観衆を相手にするのも未知の領域。
また、宿泊先から会場へ向かう沿道や、客席の最前列に、
自分達をガードする警官隊が直立不動で並ぶ異様な風景は、嫌が上にも不安を煽った。
しかし心配は、程なく取り越し苦労に変わる。
何しろ「ロックンロール・ミュージック」から「アイム・ダウン」まで、
全11曲のステージは、絶叫に包まれたままだったから…。
たった3日間の来日公演以降、二度と訪日は叶わなかった「ビートルズ」。
短くとも、遺したものは絶大だった。
合計5回のパフォーマンスの観客動員は、日本新記録の5万人強。
警備に当たった警官の数はのべ9,000名近く。
実施費用は当時のレートでおよそ1億円。
補導された少年少女は6,500名以上。
どれも過去に例を見ない数字ばかり。
結果、音響、ステージ装飾、チケット販売、警備のやり方など、
現在のエンターテイメントの運営方法の基礎が築かれた。
また、大規模なコンサートが企業の販促に貢献するツールとして認知され、
流通の仕組みにも、新たな一石を投じたのである。
「ビートルズ」が日本に刻んだ103時間は、文字通りのエポックメイキング。
その最初の一歩が「I WANT TO HOLD YOUR HAND」だった。
彼らの登場まで、演奏者自身の手によるソングライティングは稀なケース。
作り手と担い手の分業制が普通だった音楽の現場において、
自作自演のオリジナル・ヒットを連発したのは「ビートルズ」が初めて。
メンバー全員が楽器を演奏しながら歌うというスタイルも、斬新。
また、シングル・リリース中心の音楽市場で、
より芸術性の高いアルバムによる展開を始めたのは「ビートルズ」が元祖。
何もかもが新鮮な驚きに満ちていた。
リバプールの元不良少年達…「ジョン」「ポール」「ジョージ」「リンゴ」は、
ポップミュージックのOSを刷新したと言って過言ではない。
優れた発明・発見によって讃えられる偉人は大勢いるが、
このスーパーグループも、間違いなく同じカテゴリーに分類されるだろう。
そして先ごろ、その扇の要だった人物が鬼籍に入った。
「サー・ジョージ・マーティン」、平成28年(2016年)3月9日没。享年90。
ご冥福を心からお祈りし、拙文の結びとします。
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