僕たち人類が暮らす地球は「空気」のベールに包まれている。
空気には形も色もなく、目に映らない。
しかし体感することはできる。
それが「風」だ。
日本人は、気温と気圧の差によって生じる空気の流れに対し、沢山の呼び名を付けてきた。
「順風」「逆風」「薫風」「東風(こち)」、
「疾風(はやて)」「旋風(つむじかぜ)」等々。
名前を聞けば、風の表情や情景が脳裏に浮かぶ。
文字通り風情を感じるが、やはりどれも見ることはできない。
今回は、その不可視を見つめた人、
津幡町の俳人「河合見風(かわい・けんぷう)」をご紹介しようと思う。
本名「河合屋理右衛門(かわいや・りうえもん)」。
正徳元年(1711年)、津幡宿の商家に生まれた。
家業を継いで以降、旅館と米屋を営み、居村組合頭を勤める傍ら、
俳諧(はいかい)を学んだ。
また、加賀藩の重臣や、京都の和歌の名門「冷泉家」と親交を持ち、
「松尾芭蕉」の句碑建立、「冷泉為広」の石碑を再建するなどした。
こうしたプロフィールを言い換えるなら---
経営者にして村役人。
文化人にして学芸員。
文芸、経済振興のプロデューサー。
なかなかマルチな活躍ぶりなのだ。
現在、津幡町ふるさと歴史館「れきしる」にて「河合見風展~見風と千代女の交流」が行われている。
↑ 見風著 自筆俳諧紀行集「旅のつれづれ」。
津幡から能登・七尾を経由して石川~富山にまたがる山を越え、
能登中部の由緒ある神社で神事を見学した旅の記録。
↑ 為広塚碑面。
「冷泉為広」は、室町幕府中枢の一角を担うも将軍失脚に従い出家。
能登を治める「畠山(はたけやま)」氏の元に身を寄せていた。
その墓所が津幡町にあると聞きつけた子孫が、
加賀藩・前田家の要職者、見風とともに建立した石碑の表面図。
↑ 津幡宿 為広塚周辺図
「為広」の子孫「冷泉家」から「河合家」に贈られた鳥観図。
画像中央上部、赤丸で囲んだ中が「為広塚」。
その下部には津幡川、おやど橋、津幡宿の街並み、見風邸などが描かれている。
(※実物に赤丸、矢印はない)
「れきしる」館内には、他の展示も多彩。
今回は簡潔明瞭を旨としようと考え「河合見風」に焦点を絞って取り上げたが、
企画展タイトルにある「加賀千代女との交流」に関する品々も注目である。
さて「河合見風」が生涯を閉じたのは、天明3年(1783年)。
享年73。
大西山には、その遺徳を偲ぶ句碑がある。
上掲画像がそれだ。
「はつなすび それから花の さかりかな」。
石に刻まれた歌は、彼が心酔したという「芭蕉」の影響が見て取れる。
<見風は家業の多忙に加え持病を抱えていたため
諸国行脚に出ることはありませんでしたが、見風を訪ねる俳人は後を絶たず、
ひろく諸国の俳人との交流がありました。>
--- 今企画展解説文を読み、合点がいった気がする。
「見風」は、生まれ育ち生活を営む北陸の片田舎に居ながら、
「風を見ていた」のだ。
訪問者がもたらす情報、時流、出来事、季節、日常など、
世に吹く風を慧眼を以て、つぶさに観察し考察していたのではないだろうか。
「河合見風展~見風と千代女の交流」の会期は、12月4日(日)まで。
時間と都合が許せば、足を運んでみてはいかがだろう。
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