僕が生まれた昭和40年(1965年)頃、
邦画には「任侠物(にんきょうもの)」と呼ばれる一大ジャンルがあった。
簡単かつ乱暴に言えば「反社会的勢力/アウトローたちの物語群」。
最盛期には、東映だけで年間30本以上が制作された。
それは2つに大別される。
前期が、明治から戦前~終戦直後を舞台にした、ファンタジー任侠。
『仁義なき戦い』の封切り(1973年)を分水嶺に、
後期は、公開当時の世相を反映した、実録ドキュメンタリー風任侠。
今回取り上げたいのは、前期のそれだ。
リアルタイムではなかったが、僕も何本か観たことがある。
--- いや「眺めたことがある」と言った方が正しい。
日本各地を自転車で貧乏旅行した10代最後の年。
旅費節約のため宿替わりにした「リバイバル館」(※)のオールナイト興行で、
夢見心地で任侠映画と向かい合った。
(※古い作品を2~3本立てで上映するミニシアター。入場料は千円程度。
作品毎の入替がなく途中入館可。昔は地方の大きな町でもよく見かけた)
「高倉 健」「鶴田 浩二」「若山 富三郎」「勝 新太郎」「二谷 英明」。
カッコイイ男たちが演じるドラマは、どれも迫力満点。
しかし、早朝から200kmほどペダルを踏んできた身はクタクタ。
椅子に座って10分もすれば睡魔に引きずり込まれるのが常。
だがしかし、思わず眠気も吹っ飛んでしまう例外もあった。
ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百十回「緋牡丹お竜」。
世界は「男と女で成り立っている」。
ジェンダー(社会的・文化的な性別)は一旦棚上げして、
セックス(生物学上の雌雄)という意味である。
男社会とされるところにも女性は係わっているし、逆も然り。
どちらが欠けても物事は成り立たない。
だから「任侠物」にも、必ず女性キャラクターが登場する。
但し、多くは脇役。
血飛沫とスポットライトを浴びる男に寄り添い、ストーリーを彩る華だ。
ところが旅の途中、函館の場末の映画館で偶然目にした『緋牡丹博徒シリーズ』、
「藤 純子」演じる「お竜さん」は一味違った。
歯切れのいい啖呵(たんか)。
スピーディーな殺陣(たて)。
片肌脱いで緋牡丹の刺青を露にするシーン。
手本引きや、壺振りの鮮やかな所作。
--- どれもカッコいいのである。
細雪降る中で、蛇の目を差した立ち姿。
袂から袱紗(ふくさ)を取り出す仕草。
惚れた男の顔をチラリと見遣る流し目。
微笑みを湛えた画面いっぱいの大写し。
--- どれも美しいのである。
切った張ったの修羅場を生抜く逞しさ。
時折醸し出すハッとするような色と艶。
対極に位置する魅力が同居したキャラ。
薄闇に浮かぶ銀幕の中で堂々の主役を張る彼女に、僕は見惚れてしまった。
そもそもテレビに押されて斜陽化した映画産業が、
電波では出来ない「暴力表現」を盛り込むことで生まれた任侠物。
『緋牡丹博徒』は、更に新たなカッコいい女の任侠路線を切り拓いた。
その潮流は、80年代『鬼龍院花子の生涯』『極妻シリーズ」など、
女優を前面に押し出した作品へと受け継がれてゆく。
考えてみれば「侠」の字は「きゃん」とも読む。
粋で鯔背で活発---「御侠(おきゃん)な女子」にも当て嵌まる。
案外「任侠」は、セックスに関わらない、ジェンダーレスな言葉なのかもしれない。
僕も高校生の頃、興味かから恐る恐る3本建てのリバイバル館に行ったのを覚えています。
禁煙のはずの映画館ですが、タバコの煙が立ち込め、映画が終わり、明るくなると絵に描いたようなチンピラの若い衆のお兄さんが座っていて・・・・。
僕は、高倉健が好きだったので、任侠ものではないですが、「網走番外地シリーズ」ですね。
では、また。
Zhenさんも高校時代にリバイバル館へ。
しかも健さんファンで「網走番外地」。
きっと思い描く光景が類似している事でしょう。
懐かしい昭和の風景ですね。
典型的なチンピラが咥えタバコ。
煙が立ち込める劇場。
そうでした。
ありありと思い出しました。
函館では、男性好きらしい男性に、
太ももや膝を触られました(笑)
僕はその趣味はないので、
力を込めて振りほどきました。
深夜の映画館には色んな人がいたものです。
では、また。