少し以前のことになるが、北陸に例年より早い梅雨明け宣言が出た2日後。
2023年7月23日に、僕は石川県・野々市市(ののいちし)へ車を走らせた。
目的地は「にぎわいの里ののいち カミーノ」。
野々市市の公民館・市民活動センター・観光PR拠点などを併せた複合施設である。
ここで当日行われた「石川県民大学校」講座の一環、
「北陸満友会」の語り部を聴講した。
「北陸満友会」の概要は、同会会則を基に記すと以下の具合。
<東旧満州地区等からの引き揚げ者の経験を後世に引き継ぐ会>
<石川・富山・福井、北陸3県に在住している旧満州地区等からの引き揚げ者、
その子・孫縁戚者及び関心ある研究者など、会の目的に賛同する人たちの組織>
<北陸以外、他県に在住している人でも希望により受け入れる>
<会費は徴収せず、必要経費は親睦会・募金等で賄う>
(※< >内、会則より引用編集)
第二次大戦後、大陸から日本へ引き揚げてきた方々が中心となり、
手弁当で年間10回程度の語り部活動を行い、
創立から10年の間に80回近くを重ねてきた。
高齢化が進む中、反戦平和の願いを込め自身の体験を伝えようとマイクを握っている。
僕がその存在を知ったのはごく最近。
知り合いが「北陸満友会」に関わるようになり、
今回「演劇」を披露するから見に来ないかとお誘いを受け、初めて臨席した。
演目は「満州国に暮らした日本人少年のエピソード」。
同会会長の体験をモチーフに、引き揚げ者・研究者へのインタビュー、
各種資料を参照して構成した二人芝居。
演じるのは「野々市市民劇団 N劇」のメンバーである。
― 背景:「満洲国」について ―
位置:現在のロシアと国境を接する中国東北部。
面積:およそ130万平方キロメートル(日本の3倍強)。
首都:新京(現:吉林省・長春)。
民族:漢民族・満洲民族・蒙古民族・朝鮮民族・日本民族に加え、
白系ロシア人やユダヤ人も居住していた。
言語:満洲語、モンゴル語、日本語、ロシア語。
皇帝:“ラストエンペラー”「愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)」。
建国:昭和7年(1932年)早春。
滅亡:昭和20年(1945年)晩夏。
明治維新以降、日本が莫大な血とカネを注ぎ込んできたそこには、
200万を超える数の邦人が在留していたが、敗戦によって消滅。
多くの悲劇を生んだのはご存じの通り。
さて、劇の主な舞台は旧満洲でも最北端となる街・黒河(こくが)。
世界8位の長さを誇る「黒龍江(アムール河)」沿いに開け、
対岸はソビエト連邦(当時)である。
物語は、南満州鉄道の鉄路を往く列車の音を効果的に織り交ぜながら進行してゆく。
主人公の少年の視点で---
平和だった頃の満州での暮らし、
他民族との交流と軋轢、
敗戦間際にソ連軍が侵攻してきた時の恐怖、
命からがら引き揚げ船に乗るまでの道中、
---などを、2人の役者が好演。
〽ここはお國を何百里 離れてとほき滿洲の
赤い夕日にてらされて 友は野末の石の下
思へばかなし昨日まで 眞先かけて突進し
敵を散々懲らしたる 勇士はここに眠れるか
壇上の2人が力いっぱい腕を振りながらアカペラで軍歌「戦友」を唄うシーンは、
胸に迫るものがあった。
準備は大変だろうが、叶うなら続篇を期待したい。
北陸満友会(リンク)
私の父も20歳、昭和11年(1936年)に満州へ出征し、翌年機関銃の球が肩に当たって傷病兵として帰国しました。当時のことはあまり話さない父親でしたが、満州の寒さと若いロシア女性がきれいだったと話したことがありました。
父の兄は電気技師として満州へ行って、敗戦後命からがら帰国したので、戦後家族を養うためずいぶん苦労されたとのことでした。
今投稿本文にも書きましたが、
当時は多くの日本人が新天地・満州へ移住し、
彼らを保護する名目で沢山の派兵が行われました。
お父さん、叔父さんが満州へ。
身近にあの大地と関りをもった方がいらっしゃったんですね。
大変なご苦労だったこととお察しします。
では、また。
満州出身の親戚のおばあちゃんが、ちょっと前に亡くなりました。旧満州のことを教えてもらえる親戚がいなくなっちゃいました。
日本の敗戦までは、学校は五族(日本人、朝鮮人、満州人、モンゴル人、漢人)協和のスローガン通り五族と白系ロシア人の子弟が仲良く学んでいました。ただ敗戦で、状況は一変、進駐のソ連兵の略奪や性暴力から身を守る男装など、辛い思い出。中国人の子供から石を投げられることもあったが、それまでの日本人の振る舞いを考えると、恨む気持ちにはならなかったとか。
多くのストーリーがあり、それを残したいものですね。続編を楽しみにしております。
では、また。
北陸満友会で披露された劇、
その中にも漢人の少年から主人公への
「投石」シーンがありました。
石を投げた方も投げられた方も、直接の利害関係はなく、
大人たちの対立の合わせ鏡。
子供は純な分、容赦がありません。
哀しいエピソードです。
北陸満友会には、これからも機会を作り
足を運んでみようと思っております。
では、また。