「天災は忘れたころに来る」。明治生まれの物理学者、寺田寅彦がよく口にしていたという言葉が思い出されます。
100年前のきょう9月1日に起きた関東大震災。死者・行方不明者10万5千人にも上ります。その9割が火災の犠牲者でした。発生が昼時で多くは台所からの出火でした。折あしく日本海を通過していた台風のため風が強めだったことも影響したとみられます。
横浜市で2万5千人、東京市で6万6千人が火災のために亡くなりました。東京都墨田区の被服廠(ひふくしょう)跡(現在の都立横網町公園)では避難してきた人が火災旋風に巻き込まれ約4万人が死亡しました。
震源域は神奈川県西部から千葉県南部にかけてです。直上の神奈川では広い範囲で震度7相当の揺れとなり、多くの建物が全壊しました。ではなぜ震源の真上でない東京でこれほど多くの死者が出たのでしょうか。
◆都市基盤不十分なまま
もちろん人口が多かったこともありますが、名古屋大特任教授の武村雅之さんは「揺れが神奈川ほど強くなかった東京でこれだけの大火災が発生したのは、街に欠陥があったからだ」と指摘します。
「富国強兵で都市の基盤が整備されないまま多くの工場ができ、そこで働く人々が集まり、周りに耐震性の低い家が密に立っていたから延焼が防げなかった」
寺社地や武家地など街の余裕を切り捨てて、産業優先で発展した結果だというのです。そして、経済優先で大きくなった戦後の東京も同様に弱点を抱えていると武村さんは警鐘を鳴らします。
都心には関東大震災を教訓に整備された街路などが残りますが、戦後の人口急増で、それを取り巻くように燃えやすい木造住宅密集(木密)地域=写真=が広がります。都の審議会でも「戦後復興から高度経済成長期にかけて、都市基盤が十分整備されないまま市街化・高密度化が進行した」との認識が示されています。
人々の生活が息づく迷路のような路地、古い木造の街並みと超高層ビルのコントラスト、渋谷や秋葉原など雑多な電飾や看板があふれる繁華街。街の自由な成長が東京の魅力を生み出してはきましたが、残念ながら、公園のような空間、余裕のある道路など都市の基盤づくりは欠けていました。
東京は関東大震災から今日まで大地震に襲われず、都市の基盤についてじっくり考えることを忘れてしまっていたともいえます。
阪神大震災や東日本大震災を経て「思い出した」ときには、すでに地震への不安を抱える巨大都市となっていたのです。
日本全体では建物の耐震化はある程度進み、関東大震災、阪神大震災、東日本大震災と時代を追うごとに人口当たりの出火件数(出火率)は下がる傾向です。
しかし、東京の人口は関東大震災のころの3倍以上に増えています。出火率は下がっても世帯数の増加で出火件数は減らないか、むしろ多くなるかもしれないと専門家は見積もります。
都は建物の不燃化など木密解消に取り組んできましたが、まだ23区の1割以上を占めていることも心配材料です。
政府の中央防災会議は、いま関東大震災級の地震が起こると死者は最大7万人と試算しています。研究者の中には関東大震災と同程度になると考える人もいます。
◆再開発で新たなリスク
都心部の再開発では道路や公園が少し広がる代わりに超高層ビルなどが建ち、人をより集中させて帰宅困難や群衆事故という別のリスクを生み出しました。超高層ビルを大きく揺らす長周期地震動の存在も明らかになっています。
「文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈(げきれつ)の度を増す」。寺田はこうも言います。街や建物の規模が大きくなれば被害も大きくなるのは当然です。
地震学者はマグニチュード(M)8の関東大震災規模の地震が再来する前に、M7の阪神大震災級が起こる可能性が高いと考えます。それに備えて、すでにできあがった都市の構造的問題を解決するのは非常に難しい課題です。
しかし、災害を少しでも減らすためには、防災対策を一歩一歩前に進めていくしかありません。だからこそ関東大震災の被害を後世に伝える必要があるのです。
100年前に何が起きたかを知れば、今後どんな災害が起こりうるかが予想できます。その想像力こそが、街を災害に強くする力になるはずです。もう忘れている余裕などないのです。