先月、facebookにある写真を載せた所、
幾つかの嬉しいコメントを頂きました。
そんな中、分析するような1つのコメントに
「え?どうして?」と違和感を覚えました。
ブログもfacebookにおいても、友人のみならず、
不特定多数の方が見る可能性もある場で
年齢も含めた自身の個人情報を明かすということは
私はとても抵抗があります。その理由は割愛しますが、
私にとって大きな理由あってのことです。
大事な個人情報を全て開示しても大丈夫、
全く気にならないと肚を括れる自信もありません。
また、包み隠さず個人情報を開示すること=信頼を得る
ということにも繋がらないと、私自身は感じています。
以上のことから、facebookのプロフィール写真を除き
これまで自身の写真を積極的に載せる事はなかったのですが、
お気に入りのスペースに飾ってある写真を ふいに載せたくなり
いつ頃撮った写真であるかなどの説明もせずサラッと載せました。
その写真に説明文を添えていたわけではないので
写真を見た大半の方は「わぁ~○○ですね」 と、心動くままに
愛ある温かなコメントを下さいましたが、
ある友人は 当の本人が明かしていないのに ご丁寧に
この写真は「昔」の写真であるということを何度も強調し、
分析するようなコメントをしていたので、
(分析をするような写真ではないのですが・・・)
本人が明かしていないことを悪気なく書いてしまう事に対し
それは違うんじゃないの?と 思いました。
私と違いその友人は、自分をさらけだすことに
抵抗がないようで、普段からお顔のアップ写真や
「髪型を変えました~」も含め、頻繁に
ご自身の顔写真を載せる方ですが、私自身は今まで
そうした写真を見ても分析などすることもなく、お世辞でもなく
思うままに「可愛いですね~」などのコメントをしていたので、
今回 珍しく載せた私の写真への思いがけないコメントに
色々な事を感じてしまいました。
私と彼女2人だけのメールのやり取りならいいのですが、
私と実際に会ったことのない方もご覧になられる
facebookなどの場で、本人が開示していないことを、
頼んでもいないのにわざわざ開示してしまうというのは
ある意味 越権行為なんじゃないかなと思いました。
直接、こうした気持ちを本人に伝えてはいませんが
以来、お互いの間に溝のような距離ができています。
同じ頃、彼女がご自身のfacebookに
(私のことなのか別の人の事なのか定かではありませんが)
「こっちはそんなつもりで書いてないのに あぁ~めんどくさい」
と、いった内容が書いてあるのを見たとき、意外でしたが、
どこまでも自分の言動に自信がある人だったんだ、と
思うと同時に、
「相手の言葉にいちいち反応する私が悪いのかしら」と、
自分を責めるような感情とモヤット感が暫く続く中
おなじfacebookで
「あぁ、何ておおらかで 豊かな感性の人なんだろう」と心底思い、
心がほっこりした ある方の記事が目に留まりました。
その方はfacebookで繋がっている、私の直接の友人や
知り合いでなく、会ったこともないのですが、何故か?
その方と2人で旅行した夢も見たことがあるのですが、
その方は、色々な方々と 遣り取りされる中、
毎回、いじけるでもなく、自分を卑下するでもなく、
実に軽やかに 心地よく 力まず、ホワッと
ご自身の思いであり、性質や顔の造形なども含めた
ウィークポインドでをも「~なのよ~」と サラッと開示されていて、
また、お友達が寄せられた様々なコメントに対しても
大らかで ウイットのきいた それでいて とても素直で
素敵な返しをされてらしたので ふと、
「身近な方々から肯定されて育って来られたんだろうな」と
感じました。肯定され、伸び伸びと育ってこられたからこそ
些細な人の言葉に 動揺することも 悲しくなることもなく、
自分を信じる真の自信があるからこそ、色々な方々の
やや毒づいた言葉でさえも 笑ってサラリと聞き流せる
度量の大きさがあるのではないかしら?と思いました。
語らないまでも、人にはそれぞれ
内面に何らかの傷を抱えている(いた)ように思います。
傷が癒され越えた方も勿論いらっしゃると思いますが・・・
私自身も未だ癒えない傷を抱えています。
詳細は割愛しますが、
ただ、傷を抱えたまま放置し 何もしないで
日々 さめざめと涙して、ということはなく、
その時々に 傷を癒すべく本を読むだけでなく、
色々なことに向き合っていますが、
幼いころからの幾重にも重なった哀しみや、
恐怖の感情や記憶は魔法みたいに、
杖を一振りすれば、キラキラっとが出て一瞬にして
はぁ~い、全ては消え去りました、チャンチャン♪と、
解決するほど簡単なものでもないため、
生涯かけて傷を癒していくように思っています。
私自身、肯定されて育ってきた、というよりは、
駄目出しをされることの方が多く、
親が これにしなさい、この色にしなさい、と言ったら
自分はこの色が好きと思っていても、親の気持ちを汲み取り
自分の気持ちを抑えることを長年続けていました。
中学の時、リレーのメンバーで揃えて買った黒いジャージ、
帰宅後、嬉しくて母に見せると、
「黒なんて不良の色、変えてきなさい」と言われ、
30分ほど、手にしたジャージを見つめていましたが、
お母さんがそういうなら、と、もう陽が暮れかけていましたが
再び自転車に乗り25分かけてスポーツ店へと向かいました。
「やっぱり水色がいいので変えて下さい」と交換理由を
店主に言い、ジャージを交換しましたが、水色のジャージには
Sサイズがなく、仕方なくMサイズにしましたが、
ウエストがブカブカだったのでジャージの上から
ベルトをしていました。
当時は気づきませんでしたが、本当は悲しかったのに
こんな風に 自分の気持ちを抑え我慢する事が多く、
自分で選び取った物(服)を あとでお店に交換しに行く、
ということは何度もありました。
親の感情のまま理不尽なことで怒られ ぶたれることも多く、
お灸(お線香)を手にすえられるということもあり、
幼稚園に上がる前の幼い頃、毎晩布団の中で
声を殺して泣き、
「私なんて生れてこなければよかった」と思っていました。
父と喧嘩をし 落ち込み 泣いている母を
小さな頃から大人になるまでずっと励まし続けていたので、
親に甘えるとか、駄目だしされず 無条件に愛され
守られている、という実感や安心感のようなのは
あまり感じていなかったように思います。
生まれ持った魂の質、というのもありますが
そうした環境の中で嫌でも色々なことを
敏感に感じ取る子でした。
話しを戻しますが、ある方の素敵なコメント返しを見ている時、
自分の生い立ちについて色々な思いが巡りました。
内観する中であるヴイジョンが脳裏に映しだされました。
それは2つの実でした。
1つは傷のついていない実、
もう1つは傷が入った実。
2つの実にかけられた水。
傷のついていない実は
ツルンと綺麗に水をはじきますが
傷の入った実は 水が傷に沁み入ります。
傷の入っていない実は 先程の彼女と重なり、
傷の入った実は自分の心と重なりました。
そのヴィジョンを視た時、開き直りのそれとは違い
思ったことは、先月の思いがけないfacebookの
友人のコメントに対しイチイチ反応する、
気にする自分が悪いのかなと自分を責めていましたが、
傷があれば 沁みるのは むしろ当然のこと、と
素直に思え 自分を肯定できました。
好きな詩人の一人に、
星野富弘さんという方がいらっしゃいます。
富弘さんの詩集は 数冊持っていますが、
不慮の事故に遭い、ご苦労されたからこそ、富弘さんの
書く詩であり、画はどれも心にスッと染み入ります。
数ある富弘さんの詩の中で、
特に心に響く詩があります。それは、
「わたしは傷を持っている、でもその傷のところから
あなたの優しさがしみてくる」です。
この詩に初めて触れた時、
なんだか自分のことを言われているようで
涙が止まりませんでした。
傷があると、確かに色々なことが沁みるけれど
でも、傷を持っているからこそ、
人の優しさもより沁みてくる、
感じ取れる・・・・
そして、傷を受けた分、人に優しくなれる・・・
日頃より 言葉を大事に紡ぎたいと思い、
言葉、放たれる言葉の音に敏感な私・・・
汚い言葉や 投げやりな言葉にドキッとする私・・・
それは何気ない言葉も時として
刃(やいば)となり 心に刺さることも
また、温かな言葉一つで
生きる希望に繋がることも
自身の経験値から いやというほど
知っているからなのかもしれません。
思います。
つき合いが長かろうが、短かかろうが関係なく
魂の成長具合により、
人の心につき刺さることを言わない人は
ずっと言わないし、
言う人は、ちょっとした場面で ポロッと悪びれず
言ってしまう。
ならば、機微を感じる心をもった人と付き合うことを
選び取ればいいだけのこと。
ほんとは目立ちたがり屋で、
人から褒められると嬉しいのに 褒められると
「いやいや、そんなことはないです」と
自己否定する人や
相手の素敵さを認められず、
「フン」と、意地悪魔女のような穿った見方をする人・・・・
こうした難しい方は、こちらの気持ちが なだらかで
安定していないと、トラブルになる可能性があるので
私は自分から近づくことはありません。
今回のことで 等身大の私が思ったこと
それは、
「私はあの時、ああいう書かれ方をして
やっぱり嫌だったし とっても傷ついたんだ」
ということでした。
皆様も、ご自身の その時々の揺れ動く
正直な想い どうか大切になさってださいね。