イタリアの風に吹かれて ~con te partiro~

前世(かこ)から未来(いま)へと紡がれし時の記憶
あなたと交わした約束の欠片を辿る遥かなる愛しき旅

約束の重み

2019年12月23日 08時46分10秒 | 他人のふりみて

相手の悲しみを想像することなく 実にあっさり

「あらあら、ごめんなさいね~」と

毎回あっけらかんと謝れば、

「ハイ、もうそのことは終わり、一件落着!」と、
自己完結してしまう人の気持ちは正直分かりません。

それは感情を伴う生身の人間だから。
かくいう相手もロボットではない同じ人間ですが(苦笑)

10年程前でしょうか、大好きな小田原の地で
小田原在住の女性とランチの約束をしましたが、
度重なるドタキャンでそれはなしになりました。
20年ぶり位にお祝いの場で再会した彼女はこの再会を
テンション高く喜び、積極的にメールアドレスや
携帯番号を聞かれ盛り上がる中
「小田原でランチをしようね」と交わした約束。

毎回、「行けなくなった」の連絡は当日の朝に入り、
電車に乗る直前の「ごめんなさい」もありました。
何度も続くドタキャン。
「こちらの都合や気持ちはお構いなし? それって違うよね?」と
違和感を覚え心がザワザワしたのですが、
この思いは封印し、本人には伝えませんでした。
嫌だなぁ~と思ったのは毎回同じドタキャン理由でした。
体調不良や、のっぴきならない急用ができて、のそれではなく
彼女にとって利害関係のある人物から、会う約束をした当日の朝、
突然依頼されたことを毎回、即答で義理立てし、
私との約束は反故、の繰り返しでした。
その割にあっけらかんとした彼女の様子に
クエスチョンが頭の中を駆け巡りました。
依頼内容を話してくれましたが、彼女じゃないと務まらない、
というものではなく、活字から見てとれたのは
彼女自ら相手の期待に応えようとしている

忖度している様子が端々にみてとれました。
シンプルにただ一言、「すみません。先約が入っています。」と
何故、約束していることを話さなかったのか?
1度ならまだしも、同じ理由でまた・・・・というのは正直凹みます。
心に反し、彼女に言われるがまま日程変更をOKしたところで
失礼ながら、同じことの繰り返しになることは想像できたのと、
既に会いたい気持ちは萎えてしまっていたのでランチは断りました。

振り返ると彼女と交わした約束は中々実現しないというか、
口約束が多かったです。

それから数年経ち未だあの時の心の傷は癒えてはいませんでしたが
様々な流れでランチをすることになり、その数か月後、
私の住む地域で4人で忘年会をしたあと、折角なので
自宅に寄ってもらいお茶をしました。
その時も明るく元気に「今度は小田原で是非定例会を!」と
前のめりだったので(彼女の)引越後、落ち着いた春頃には、
何らかの連絡があるのかな?と思っていましたが、
結局、1年間音沙汰なしでした。

時を経てまた彼女から頂くようになりやり取りが始まった年賀状。
今度はいいお付き合いが始まるのかなと
ぼんやり思っていましたが、新住所のお知らせもなく、
またか・・・・と、あの苦い経験がよみがえりました。
住所変更のお知らせを頂いたからと言って押しかけるなんて
微塵も思っていなかったのですが、
予防線?をはられてしまったのかなと思いました(苦笑)

つまるところ10年前のランチの約束も、定例会も
本心は乗り気でなかったことの表れなのでしょう。
良くも悪くも どこか 人たらしな年下の彼女から
何度肩すかしをされても微かに信じようとしていた私は、
学習能力がなくマヌケだったのかもしれませんが、
彼女から大事に思われていないことは

とどめをさされ、あきらかになったので
彼女との関係をリリースしました。

いつの日か、私と同じこうした思いを身を持って
彼女が経験した時に初めて?
私の心情を理解してくれるのかも(?)しれません。
この苦い経験を通して思ったのは、様々な場面において
自分にとっての『利』を第一優先に選び取ることは
一見、賢く得をしているようでいて、
実は大事なものや信頼を失っているように思います。
そもそも交わした約束を、
天秤にかけるということ自体驚いてしまいますが。

昨年まで見ていたあるドラマの中のセリフに
「本当に価値のあるものはお金で買えない」とありましたが
妙に共感しました。

目の前の人を大切にすることの1つは、
実は心が伴っていない(本心ではない)のに調子よく、
その場のノリや勢いで約束を交わすものの、  
状況が変われば迷わず利害を優先にし
相手の気持ちを翻弄しても気に留めないとは全く逆の、
自分が放った言葉に責任を持つことではなかろうか?
と思うのです。
そうした人に共通しているのは
言動に一貫性があり嘘がないということです。 


生れも育ちも関係ない備わりしもの 

2014年01月24日 23時58分52秒 | 他人のふりみて

001 
 品性って マナー教室のような所で
表面的な所作や会話を学び 
身につけるものとは異なり
元々備わっているもの
のように思えるときがある。

例えば
人によって
 コロコロ態度を変えたりしないコト

 自分に不要になった使い古しの物を
 いきなり ばらまいたりしないコト

 私の思う品性。

  大人になって2度驚いたことがあった。

 会社員時代 友達が自宅に遊びに来た時、
  茶色い紙袋の中に5~6枚入ったスカートをスッと渡され
  「買ったけれど1度もはいてないから良かったら」
 
「・・・・・???」

   深いスリットの入ったタイトなコードュロイのロングスカートは、
    何年もの間 箪笥に眠っていた感じに見えた。
  はいていようが いまいが、自分が不要なものを
   打診せず いきなり持ってくるというのは、
    どうなのかナ?と戸惑った。
 いつもは「ありがとう」の言葉がすぐでるのだけれど、
 
 この時は嬉しいとも 有難いとも思えなかったので
 彼女に何て言ったらいいのか多分表情が少し強張り
  しばらく途方にくれていたように思う。
  お土産の1つとして持ってきたスカート

無碍に「多分はかないから持って帰って」
とは言えなかった。

  コーデュロイもロングスカートも好きだけれど
    元々深くスリットの入ったスカートは はかない。
   スカートは1度もはくことなく数年後処分した。

 それからだいぶ月日が流れ、ある時
   同じようなことが起こった。

   いきなり持って来たり 送ってきたりではなく、
  自分が手放そうとしている画材について
  それはどういった価値があり、
(私が)使ってくれたら画材も嬉しい筈、的な
ワクワク感の様なものまで伝わってくる
テンション高めのメールだった。
けれど、彼女にとって
もう、その画材には価値を感じていないので
   喜んで使ってくれる人にあげたい
というより、手放したいということは
文面から明らかだった。
   その画材を彼女が本当に気に入っていて
大切に思っていれば、
 描き手は道具を大事にするものなので
  愛着から手放したりはしない筈だから。
 
 メールによると、現在持っているある画材は
  2つのメーカーの物なので1つのメーカーに1本化するので
  以前のメーカーの画材を 良かったらどうぞ、
   という内容だっ
た。

  画材を買うお金に困っていた訳でもなければ
  「余った画材があれば下さいね」など
  お願いしたことなどなかったので
  彼女の在庫処分に一役買うのも
    乗り気ではなかったが、
  画材の良さを一生懸命に伝える彼女に
   折角声をかけてくれていることだし、
  日頃からエレガントな暮らしについて語る方であり 
    お付き合いされる方々も○○マダムと
   いった方々が多く、彼女自身品位を重んじるような
    暮らしをされている方だったので
    そこまで勧めてくれるのなら、と
     ご厚意を受けることにした。
    
    後日、
    丸いボトルに入った数十本の画材が届いた。
    開けてみると 未使用のものではなく
  年期が入ったボトルはどれも少し汚れていて
    彼女が何度か使った物であるのは明らかで
    正直とても驚いた。
  在庫処分の物でも未開封と思い込んでいた私は
   事前に彼女に確かめることもしなかった。
  1本につき何回使ったのかは分からないけれど
   何年か前の開封し何度も使ったお古の画材を
     創作活動をする私が喜ぶと信じて疑わず、
  いいことをしているという感じで
   送ってこられたので、
画材を確認した時、
   まさか・・・・の複雑な思いがした。
   そして彼女が私のことをどんな風に
    思っていたのかも分かった気がした。
  賢い彼女は懇意にしている 
   憧れてやまない習い事の先生や
   セレブを地で行くお友達には間違っても
    在庫整理をする為に使い古した物を
     送ったりはしないのだろうなと思った。
 
    今回の件で彼女は相対する人によって
   もしかしたら、
接し方を変えているのでは?
    と、思いかなしく感じた。
  
    蓋を開けようとしたらだいぶ古かったのか?
    数本の蓋がホロホロと崩れ割れ
   固まった絵具が出てこないボトルもあった。

   人は自分にとって
    もう価値を見出さなくなった物、
   不用品と見なした物を手放すように思う。

    そのまま捨てるのは勿体ないから
    喜んで使ってくれそうな人にあげようといった
      断捨離も確かにあるのかもしれないが、
     それは身内に限り自然に受け入れられ?
    許されることなんじゃないのかなと
    率直に思った。
      
   私は不要となった物を誰かに回すのは
     失礼な気がする。
   
    本人は良かれと思いしていることなので
   ショックでドキットとしたという私の本音を伝えたら
    彼女が傷ついてしまうかもしれないと思い、
    複雑でみじめな本音は封印したけれど、
   蓋が崩れ落ちたことは伝えた。

    「こんなことされたらイヤだろうな・・・・」
 
     行動を起こす前に  
      相手の身になって考えられることは、
     大切な品格のように思う。
    不要となった物をただ人に押し付けるのは
     やりくり上手ではないと思う。

    何かを差し上げる時 そこには
   その人の内面や本音が
     色濃く映し出されてしまうと思わされる。

     物は目に見えるからこそ余計に
    様々なものも映し出されてしまう気がする。

    みなさんは 大丈夫でしょうか?

    失礼なこと、していませんか?