3月21日 6時24分宇宙元旦を迎えました
この日はmy新月 そして、
毎年3月20日から1ヵ月と少し続く自身の最大パワー周期。
翌日3月22日は、自身の月星座 牡羊座の新月。
まるで追い風に後押しされているようなフレッシュで
心地よいエナジーを感じさせられた数日でした。
魂が12年サイクルの始まりをキャッチしたからか3月19日になると
「手放したい、片付けたい、掃除したい!」の思いに駆られ、
こまごました部分をはじめ、気づけば徹夜で
3月20日の朝を迎えていました。
zoneに入ったような感覚で眠くなかったので引き続き
お日様が昇る前の早朝の清々しい気を感じながら、
脚立に乗り、玄関ドアやランプ、表札、下駄箱他、
運気の入り口である玄関を徹底的に掃除。
たたきは念入りに感謝しながら何度も雑巾がけ。
仕上げは牡羊座のキャンドルを焚き
好きな精油をブレンドしディフューズ。
本当に気持ち良くて家の中の気が変わったのが分かりました。
随分前、当時 定期購読していたある雑誌に掲載された
記事に目が留まりました。ある方曰く、
それぞれに魂の誕生日というものがあるそうで
往復はがきを投函し調べて頂いた所 私の魂の誕生日は
啓蟄(けいちつ)にあたる3月5日でした(納得)
啓蟄とは・・・
「二十四節気」の3番目 太陽の周期の関係で啓蟄は3月5日か6日で
2023年は3月6日~3月20日が啓蟄の期間。啓蟄は字の如く、
暖かくなり生き物が土から出てくる時期を示唆。
毎年、3月5日を迎えると春の訪れを実感します。
今年の3月は心身共に例年とは異なるものを感じていたので
ふいにダイアリーを見ると、3月4日の欄に
「やる気スイッチオン!片付けをしよう!」と書いていました。
このあたりから徐々に本来直感に従い迷いなく動く、
という「勘」のようなものが戻ってきたのを感じ
小さなことも直感のまま行動に移すようになりました。
3月7日の魚座 満月を迎えた直後からは様々が
プラスに転じるのを実感し、
3月9日お月様から視せて頂いた不思議な現象は
深く感動しました。
Keikoさんを通し知った宇宙元旦という言葉。
(随分前にプレバランス・アストロロジーの講座で星読を学んだ時の
惑星の特徴や記憶が今思い出されています)
2023年の宇宙元旦の日、ラッキースター木星があるのは牡羊座なので
2023年は牡羊座木星期で幕を開ける
昨年の秋から毎日夜空を眺め星や月に心で語り掛け
宇宙に想いを馳せ
地球に住まう生き物の幸せを祈るのが習慣になりました。
ちょっと休憩で、この記事を一旦下書き保存して、
数ヶ月遠ざかっていたfacebookでしたが、
久しぶりに友達のライブ配信を視聴しました。
すると嬉しく思うことがありました✨
お友達が10年間思い描いてきたことが
形となってある物を紹介していました。
彼女から喜びが伝わってきて、
「わぁ~凄い! !ホントよかったね!!」の思いが溢れ
自分のことのように とっても嬉しくなりました。
彼女とは去年オンライン講座で画面越しに逢いました。
去年1度リアルで会い、寒川さん参拝後カラオケをしました。
友達になって丁度1年位ですが、励まし合い
お互いの夢など色んなことを話してきました。
彼女が描いていることはきっと叶うと信じています。
何故ならその話を聞いた時ヴィジョンがありありと視えたから。
彼女の思いがいよいよ実現した時は当ブログでも改めて
紹介しますね。本当におめでとう💛
夜中でしたがライブのアーカイブにコメントを寄せました✨
私はやっぱり友達の喜びごともとっても嬉しいです。
話しはかわりますが、
自分が譲れないもの、ずっと大事にし続けたいことが
より明確になりました。
対人関係において潤滑油となる共感力は
本当に大事だなぁとつくづく思いました。
長くなりましたが良かったらご覧ください。
インスピレーションで作品を産み出してから12年、
ご褒美のような奇跡が齎されました。それについて少し
SNSで触れた所、それを読んだ友人から
「色々多忙でアクティブになって嬉しいです」と
ラインがきました。
その友人と1年ぶりに会いました。
彼女の口から毎回出るwordがあります。
それについて話す時の彼女はとても嬉しそうで
楽しそうで目が輝いていました。
自分の好きを語るとき 人は皆キラキラしています。
彼女の生きがいである趣味について
私は「やりたいなぁ~」と思ったことはなく、
また詳しくありませんでしたが 彼女と会った時や
メールなどのやりとりでは彼女のその「好き」を
友人の1人として好意的に受け止め、
それについて質問も交え耳を傾けていました。
人と会話をする時いつも心がけていることがあります。
それは「貴方の話をちゃんと聞いていますよ」
のサインを出すことです。それは、
相手の話の腰を折るような不要なダメ出しとか
いかにも「その話題 全然興味ありません」と
つまらなさそうな態度をとったり、
無表情で何となく聞き流すとは対極の相槌であり、
親しい人の場合は
「あなたの話 関心がありますよ」と、
その話題を広げる為に さりげなく質問をします。
ひと癖あって関係性を深めたくないなぁ、
と思う場合は別として初対面の方との会話も同じくです。
聞き上手とは、相手の話を黙って聞くことでなく、
「あなたに興味がありますよ」の表れとして
その話題を広げるような質問を織り交ぜながら
「聴くこと」のように私はですがそう思っています。
人は往々にして、
自分の好きや大事にしていることに関心を持って貰えたり、
共感されると嬉しい生きものだからです。
思います。
真のコミュニケーション力とは、
一方的に自分の話をし続けることではなく、
また、終始聞き役に徹し頷くことでもないと。
毎日職場で顔を合わせる同僚とのランチとは違い
互いのスケジュールを調整し久々の再会の場合は尚更に、
お互いの近況を確かめ合って、それが素敵な報告だったら
「あら?そうだったの? それでそれで?」と
小気味よく質問をしたり、会話のキャッチボールって
こういうことなんじゃないのかな、と思うのです。
それぞれの話しに真摯に耳を傾ける姿勢は
目の前にいる相手への思いやりと感じます。
自身の経験からですが、
お互いのステキを称えあったり、情報をシェアしたり
サポートしあったり、悩んでいることがあった時は、
頼まれてもいないのに、ゴリゴリ主観を押し付け、
ジャッジのそれではなく、ただ頷き静かに寄り添う等、
お互いを思いやれたとき、
ふわっと心が緩み、笑顔がこぼれ、
「またね」と帰る頃には双方共に元気になって
「あぁ、楽しかったなぁ~ 心が軽くなったなぁ」となる。
心の洗濯、魂の充電が叶うと
明日への希望がまた湧いてくる。
「お互いの時間」を良きものにするために
「思いやり」は大切だなぁとつくづく思うので
無理をしてのそれではなく
このようなことを心がけ会話をしています。
今回も「貴女の話、ちゃんと聞いてるよ」のサインとして
「〇〇なの?」と質問をしコミュニケーションを図りました。
親のこと、職場での出来事、
彼女の口から良く出る趣味の話し他、
限られた時間の中で、彼女の近況を
「うん、うん」と聞いていました。
が、途中から違和感が・・・・というのは待てど暮らせど
彼女からは一向に「で、SHOKOちゃんの近況は?」と
聞いてくれることはなく、近況を話せないもどかしさ、
釈然としない思いを抱え
ふと 「この時間は何だったのだろう?」と思いました。
私にとっての嬉しい出来事は、
SNSを読んで知っていたので、知っている彼女に対して
「実は●●なことがあってね」と、報告するのも
とんちんかんに思えたのと、
blogも含めた私のライフワークについては
反応がなかったこともあり余計切り出せませんでした。
snsで私の喜び事を知り1年ぶりの再会の場でも
何故か頑なにこの事については触れず、
というより意識して
この話題を避け続けている様子が見て取れたので
違和感がありました。
悟りきった人間ではない、ごくごく普通の人間の私は
自分に嬉しいことがあった時、親しくしている人からの
言葉がけはやはり期待してしまいますし、
そうした言葉がけを貰えると とても嬉しいです。
また、親しくしている人の成功や喜びを知った時、
自分のことのように嬉しくなるのでタイムリーに
「ほんと良かったね~」と、メールや電話等で伝え、
喜びを分かち合います。
「良かったね✨」を出し惜しみする理由なんて何もないから。
結局、1年ぶりの再会で話した内容の大半は
彼女の趣味のこと、彼女に関することでした。
いよいよお開きの時間が迫りモヤッと感が残る中、
話題を振らないとまずいかな?と少し考えたような表情で
ふいに独り言のようにボソッと出てきたのは
私に関することではなく「え?それ?」だったので
拍子抜けしました。漸く振られた話題については
思うところあり掘り下げたくなかったので、
残っている時間は僅かでしたが、
自身の話したい事が話せなかったもどかしさと、
「あれれれれ?」の疑問が積もりに積もり(苦笑)
マックスになったので意を決して
自分の想いを最後の最後に伝えました。
が、それについても違う風に受け取られてしまい
強い語気で彼女特有の持論を展開されてしまい
ガガーンでした。
数年前、彼女から請われ、
切れていた縁の糸を再び、結び直しました。
連絡を取っていなかった十数年という月日、
お互い色々なことがあったと想像します。
私は授かった、描くという「光」に気づき以来、
インスピレーションで作品を産み出していました。
数年前、突然届いた彼女からの手紙に驚き
戸惑いましたが、消沈した様子に作品を通し
励ませられたらいいなと思い、
インスピレーションで受け取った言霊を書画にして
手紙を添えて贈りました。
世の中にはアートに関心がない人がいることも、
アートが好きな方でも好みはそれぞれ、ということも、
描き手として認識していたので押し付けにならない様
最初で最後のつもりで真心を贈らせて貰いました。
が、作品を受け取ったあと
「アートには関心がない」とあり、
「blogもしているので良かったら見てね」に対しても
「〇〇さんのhpも殆ど見ることがないので・・・」と
関心がないことを伝えられました。
様々な経験を積む中、心境の変化があり
私を思い出しお詫びのような手紙をくれたのかしら、と
思っていたのですが、当時もそうであったように
「何故、彼女は思ったことを全て
口に出さずにはいられないのだろう?」と、心ざわつき
当時、凄い剣幕で言われたこと、
封印していたイヤな記憶が蘇りました。
「余計な事をした様で失礼しました。処分下さい」と返信し、
その後、彼女から届いたメールは1年間読みませんでした。
こうした経緯があり、再び繋がった縁でした。
私のライフワークは創作活動ですが、
最初の段階で関心がないと意思表示されてしまっていたので
図々しくない私は(笑)創作活動について殆ど口にする事はなく、
話す内容に制限をかけられているような状況は
スッキリしませんでしたが、彼女のマネをして
「私もあなたの好きな〇〇について関心がないから
その話をしないで欲しい」などと、同じ土俵に乗って
稚拙なことは言ったりせず、彼女が嬉しそうに話す
趣味の話しを遮ることもなく聞いていました。
通りすがりの人ではなく、彼女からの手紙を機に
「友達」として再び交流が始まりましたが、
私の「好き」や「生きがい」について耳を傾けるでも
共感や応援してくれるでもない
終始徹底したそっけなさは実際モヤッとしていましたが、
拒絶する人に
「聞いてくれる?こんなことがあってね。」とは言えず、
言葉を飲み込む状況が実はプチ・ストレスでした。
彼女は誰かの喜びに共感し、言葉をかけることも、
誰かの成功や才能を認めることも、したくない人だと
早い段階で気づいたので遠慮というか、
話したいことがあっても伝えなくなりました。
「興味ない(から話さないで)」とシヤットアウトされているのに
それでもお構いなく自分の「好き」や「生きがい」を
話し続けられるような毛の生えた心臓を持っていないので。
また、話した所で「ふうん」と無関心、
つまらなさそうな塩対応をされることは、
自身が時間をかけて構築してきた大切な聖域、
大切な世界が穢されるような気もしたので。
こうした経緯があり、今回も私の大切な一部である
ライフワークの話題にはならないよう注意深く
意図してその話題を避けていたことは
「あぁ、やはり」と分かったのですが
それでも頻繁にある事ではない、目の前の友達の
奇跡のような出来事に直接「良かったね」の
言葉を貰えるかな?と微かに思っていた私は甘かった
拒絶がなければ、食事をしながら直接
「〇〇が▢▢あるのでもし都合がついたら来てね」と
サラッとあるお知らせをしたかったのですが、
アートには無関心ということを知らされていたので
打診もしませんでしたが、それでも先手?というか、
私からその話しをされないように
またまた予防線を張られてしまい
「今後自分の気持ちがどう変わるか分からないけど
全く関心がないし行けるかも分からない。
悪い言い方をすれば人のことより
自分の予定と時間が大事」とキッパリ言われました。
喧嘩をしている訳でもないのに、
本来 楽しいはずの食事の場で、
何故、私が大切にしている世界をここまで
テンションが下がるようなことを、
そして、敢えて言う必要のないことを、
ズバズバ言われなければならないの?と、
とても悲しく、とても嫌な気持ちになり
とても驚きました。
彼女の大事な、頻繁に出てくる趣味の話について
同じく遮るように冷ややかに、
「その話し、興味がないから今後話さないで」と言ったら
どう思うのだろう?と思いました。
彼女の好きな世界を否定するような言葉を
一度も言ったことはなく、むしろ「良かったね」と
耳を傾け 応援していた。
けれど、私に齎された喜びについてはスルー。
ライフワークについても「興味ない」とまた否定。
相容れないことが よくよく分かったので
お開きの時間も過ぎていたので言葉を飲みこみました。
私は喜怒哀楽を素直に表現する方ですが、彼女は一歩引いて
どこか斜(はす)に構え、冷めた感じで
それは表情や活字、言葉の端々に表れていました。
本人は恐らく気づいていないか「そんなことはない」と
否定すると思いますが、実際に彼女の口から出た強い語気と
どこまでも自分の信条に自信を持った主張を聞かされて、
「あぁ、やっぱりライバル視されていたんだなぁ」と
確信しました。
彼女の信条は自分が「こうだ!」と思うことは
相手の思いはおかまいなく 歯に衣着せず、
厳しいことをズバズハ言い、
友達でも、相手の大切にしている世界他、
自分が興味なければ応援もしないし、
言葉がけもしたくはない、という、
マイナスな事象に焦点を合わせる人なんだと
改めて知りました。
彼女の言葉を聞きながら「友達って何?」と
「相容れる部分がない私と何故友達でいるんだろう」と
クエスチョンが駆け巡りました。
興味ないことについてはその話題をされないように
予め張る予防線。
でも、「興味ない」からと、そこまで
叩きのめす必要があるのか?と本当に残念に思いました。
自分が興味のないことは一切聞きたくない、
一切触れたくないという思いを聞かされていた時、
では何故、自分から離れていったのに
10年以上の時を経た数年前に 母に私の連絡先、
電話番号を尋ね 突然「かつての非礼を詫びたい」と
手紙を送ってきたのか理解に苦しみます。
私の大事にしている世界を「関心がない」と
言い放った人に今後 様々を話すことはありません。
そうすると共通の話題が何もない(苦笑)
人というのはマイナスの言葉に引っ張られるそうです。
故に、新たな弊害を生まない為にも
関わる人の心を刺すような強い言葉は不要と思います。
そして放つ言葉は責任を持ち、よく考えてからと思います。
例えば、打ちひしがれている人に向かって
追い打ちをかけるように
いくら自分が思うことが正しく思えたとしても
優しい言葉で包(くる)むことなく
自分が感じたままにズバッと
「あなたの●●が悪い」とか「●●しなきゃ!!」と
威圧的に挑戦的に発破をかけたり、
相手は望んでいないのに自分の主観で切り込んで
相手の様々を批判したり、指摘したり、
相手を説得をし、変えようとしたり
「凄く顔色悪いよ!」など、それを聞いた相手が
余計落ち込んでしまうようなズバッと言いきる物言いは
とても危険と感じ あなた、何者??と思います。
頭ごなしに上から目線でガツンとやられて
嬉しい人はいないので
こうしたことを自信を持ってやってしまうと
時として反感や恨みを買い、
敵を作ってしまうと感じました。
「貴方のためを思っているから本音を言う」は
本人目線では、いいことをしている、
優しさのように感じるかもしれませんが、
境界線を越えて
それを「今」望んでいない人の心に入り込み、
説得し続けるのは伝え方次第では
相手がより反発し、またより落ち込ませ、
悩ませ、最悪怒りの矛先を向けられることも
あろうかと感じます。
そして、それは本当に相手を思う優しさなのか?
疑問に思います。
「心配」の連呼は相手を信じていないことであり
「大丈夫、信じている。応援している」の言葉がけは
「その状況から あなたはきっと、抜け出せる、
貴方の力を信じている」というエールであり、
守護霊の立ち位置と似ていると思います。
相手に共感し、認め、褒める言葉がなく、
いきなり、「あなたのこういう所が悪い!」と
自分と年齢の変わらない人からダメ出しをされた時、
素直に耳を傾けられる人は稀だと感じます。
批判されたと感じた人は、話を聞くどころか
怒り心頭だと思います。
優しい言葉は人の心を溶かし、
棘のある言葉は人の心を刺す、
それを理解することは本当に大切と感じます。
今回のことで、私は関わった人達を
批判を絡め、叱咤激励するヒトではなく
相手の喜びに共感し応援する言葉をかけたい人であり
そちらが心地良くて好き、ということを改めて認識しました。
彼女は相手のマイナスに焦点を当て「おかしい!」と
自分が納得がいかないと、強い語気で
切り込まずにはいられない人だったんだなぁと知りました。
誰かの頑張りや、相手の好きを認められず
共感できず、素直に喜べないことは
私の問題ではなく 彼女のシャドウの部分。
私は彼女の専属のカウンセラーではないので
これ以上彼女の心について考えることはありません。
「興味があるから聞く」とか
「ないから聞かない、話さないで」だとか
そんな ちっちゃなプライド、私にとっては
どうでもいいことなので(笑)
誰かの素敵を目の当たりにしたら「素敵ね」と伝え、
誰かのHappyに立ちあったら「良かったね」と
喜びを共感し 分かち合う人であり続けます
気づいているのに悔しいから、プライドが許さないから
「言ってなるものか!!認めてなるものか!」
なんて、さみしすぎるから。
素敵な言霊の出し惜しみは勿体ない。
素敵な言葉は周りも、自分のハート💛も
豊かに温かにしてくれることを知ってるから。
私は褒められて育ったわけではないのですが、
誰かの素敵を見つけるのが得意で
誰かの笑顔にふれるのがとても好きです。
だから やっぱり 私は引き続き、これからも私らしく
素直に、伸びやかに 感受性豊かに、喜怒哀楽を慈しみ
誰かの喜びや 好きに立ち会ったら
張り詰めた頑なな「言ってなるものか!!」ではなく(笑)
「よかったね~」と微笑み、温かな言葉をかけ、
時に、エナジーアートにも協力して貰いながら
四の五の言わずに ただシンプルに「良かったね」を
言える側の人、応援する側の人でありつづけよう、
と、自分に誓いました。
人はこの世で生きる中で何かしらを「求め」
喜怒哀楽の「怒り」も感じる生きものと思います。
これらの感情を「私は持っていない」と
豪語した人がいましたが、
だったらこの世にいないのでは?と
ツッコミどころ満載でした(笑)
人間、時に感情に振り回され、求めたり、
怒ったりするから、この世で色々学び
人間をやっているのでは?と。
相手の素敵な部分に触れ、喜ばしい出来事を知った時、
ただ一言「おめでとう」と伝えたからといって
自分の格が下がるわけでもなければ 負けた訳でもなく、
「言ってなるものか」の頑なさ、ライバル心メラメラは
やはり残念に思います。
人間だけが使う言葉は本来、ダメ出しをするために
授けられたものではないのだから。
癒しの仕事を目指し、
神に道具として使って頂きたいのなら尚更、
まず、相手の心情を推し量る想像力が大切と思います。
相手が望んでいないにも関わらず
話の腰を折ったり、いち個人の主観を押し付けたり
神秘の力を求め続け、それで何とかしようとしなくても
その時々に、ただ黙って そっと寄り添うことが
最高のヒーリングになりうるということを、
人の心の澱を溶かすということを、
神でも 高級霊でもない、肉体を纏い、
喜怒哀楽の感情に時に振り回されもする
ごく普通の人間であるということを認識し、
頭(こうべ)を垂れ 自身の足元を見た時、
見落としていた大切なものに気づくのではないか、
そんなことを ふと思いました。
こうしろ、ああしろ、と
自分の正しさを押し付けることなく、
この世に生かされている意味を知り、謙虚さを持ち続け、
机上の学問ではない鍛錬を積んだ時、
敢えて、取りに行こうなどしなくても見えてくる世界があり
「光」の導きが齎されると感じるのです。
1人の人間が神をも畏れず、
どこそこの神社の方が格が上、だとか
無意識に格付けをするような発言も含め
自分は絶対に正しいんだ、という
ガチガチの思い込みをまずはリリースすることから
本当の気づきがはじまると
今回、改めて感じさせられました。
自分の小ささを知り、
真のサポートとは何であるかを
心鎮め 魂に問うたとき
本当の気づきが齎されると思うのです。