イタリアの風に吹かれて ~con te partiro~

前世(かこ)から未来(いま)へと紡がれし時の記憶
あなたと交わした約束の欠片を辿る遥かなる愛しき旅

今年を振り返って

2014年12月31日 01時43分34秒 | 感謝

 2014年のフィナーレ。

皆様にとって今年はどの様な1年でしたか。

皆様の大切な存在が守られ、
健やかに 笑顔で年越しが出来ますよう
お祈り致します

 みなさま お一人 お一人の中にともる
希望の灯が2015年へと紡がれますように



こちら12月初旬お土産に頂いたチューリップの球根。

チューリップの産地、富山生れ ということもそうですが
シュッとした花形、純白に淡いピンクの縁取りのコントラスト、
うららかな春を彷彿とさせるような
初桜という可愛らしい名前にもトキメキました
(チューリップと言えば歌にもあるように赤、白、黄色で
鮮やかな原色のお花はパッと人の目を惹きますが
私はと言えば(纏う服は鮮やかな原色が好きなのですが)
チューリップに関わらず原色の花には
あまり心動かされず、淡いピンク色の花に
最も心動かされ惹かれます。)

調べると 「カメリアとピューリシマの交配により誕生し
草姿も花形も他のダーウィンハイブリット系の品種と比べて
スッキリしている」とありました。
(薔薇もチューリップも 横に広がったタイプではなく、
シュッとした花形に私は惹かれます。
薔薇は剣弁高芯、強香、大輪、四季咲きが好きです)

私は4月生れです。
一昔前までは4月の代表的な花として
頻繁に取り上げられていたのはチューリップでした。
園芸の得意な父は毎年庭にチューリップの球根も植え
春になると赤、白、黄色のチューリップが芽吹き
春の訪れを感じていましたが、子供ながらに
(チューリップは)地味な形だなぁ~と思っていて
4月の誕生花、と言われていても
心惹かれませんでした。
私が子供の頃は学校の花壇以外にもそこかしこに
チューリップが見られていたように記憶しています。

本当は価値があって素敵なものでも 
それが当たり前のように ずっと傍にあり続けると 
いつも目にすることができると
その素晴らしさに気付けず、
感動も薄れてしまうのかもしれません。

数年前、ふいに
「そうだ!ガーデニングを始めよう!」と
思い立ちました。
(車の免許の時もそうでしたが閃くと即実行タイプです)
子供の頃、植物に囲まれ
触れて育った私にとって植物は
買ってくるものではなく、
常に身近にある存在であり、
四季折々の景色として眺めるものでした。
なのでフラワーショップの切り花には関心がなく
目に入りませんでした。そんな私でしたが、
数年前 突然記憶の蓋が開いたといいましょうか
土を触りたいという思いに駆り立てられました。
それは私の中に こぼれた種が 時が来て
ポンと音を立て発芽した瞬間の様でもありました。

ガーデナーの友人曰く、普通、初心者は選ばないらしい
大好きなカサブランカ、薔薇、牡丹
八重咲きのクレマチスなど 躊躇なく選びました。
初心者という言葉に縛られ 無難に
心動かされない植物を選ぶより、
やはり香り豊かな好きな花を育てたかったので
迷わず大輪の大きな花の苗を購入しました。

身体が知っていた(覚えていた)のでしょうか?
どこかに行って習う、ということはしていませんが
持論ですが、愛情と観察力があれば
植物を育てることは
決して難しくないと わたしは思っています。

植物はこちらの気持ちに応えてくれると、
感動することは多々あるのですが
今までヤマモモの枝が近隣の敷地に伸び、
葉も相手側に落ちていたので こまめに剪定し、
落ち葉もせっせと掃いていたのですが、
ある時、枝を掃いながら小さい声で
「ここは隣の家の敷地だから真っ直ぐ伸びてね。
葉もうちの庭の方に落としてね」と
話しかけていたら
それまで何年も、枝は色々な方向へ伸び
常緑の葉も季節を問わず
沢山落ちていたのですが
なんと、今年は本当に空に向かって
真っ直ぐ伸び、不思議なことに葉も
自宅の庭の方に落ち、近所の人の敷地には
殆ど落ちていない事にはたと気付き驚きました。
この賢いヤマモモの木は、数年前、
現在の地に居を構える前
更地だった土地を見に行った時、
忘れられたように ポツンと
置き去りにされていました。
中途半端に切られていて生気も葉もなく
まるで死んだような状態でした。
可哀そうになり ふいにこの木に触れた時、
それはそれは沢山のオーブ(光の粒)が
キラキラ ダンスをするのを視せてくれ、
祝福されている、ご縁あると感じ
それまでも色々と土地を見て回りましたが
土地の形も良く、ヤマモモの祝福もあったので
この土地に決めました。

家を建てる際、足場を組む時に
邪魔だから切る方向でと
当たり前の様に言われ、
また植木職人にも 木も弱っているし、
時期的に、移植しても根は張れないと
説得されたのですが、前の住人に
置き去りにされ、更地にするにあたり
乱雑に扱われ傷もついていたこの木を、
また人間のご都合で
たとえボロボロであっても
切り倒すことなど可哀そうで出来ず、
駄目元で移植を選択しました。

移植後は根がしっかり張ることをイメージし、
木を触り、木が茂っている様子を
日々イメージし続けました。

弱っている木なのに1度は業者のミスで
移植場所を間違えられ、結局
2度移植したのですが
(やはり根も殆ど無い状態でした)
今、ヤマモモの木は通年、
青々とした葉をつけ
とても とても 元気で 
鳥たちの止まり木にもなっています。

愛猫の病名が判明してから亡くなる迄の1年は
気持ちがのらず
庭の手入れを怠ってしまっていたのですが、
それでも植物達は、そんな私を励ますかのように
花を咲かせ 心を和ませ続けてくれました。

そして7月からまるで満開の桜のように勢いよく
毎日 千以上の花を咲かせ続けてくれている
ジャスミンは、なんと 2014年の最終日も尚、
新たな蕾をつけ続け この寒さの中 
7月から1日も欠かすことなく 健気に
毎日新たな花を咲かせ続けてくれています。

今年、ヤマモモの木が真っ直ぐ
空へと向かって枝を伸ばし、
ジャスミンが咲き続け
そして、2014年の締め括りの月に
思いがけず頂いた
私の産まれた大好きな季節であり、
春を代表する花の代名詞でもある
可憐なチューリップの球根・・・

まるで植物達が 声なき声で
「あなたのこと いつも見守っているよ。
応援しているよ。だから安心して。
 あなたが待ちわびていた春の訪れは
もうすぐそこまで来ているよ。」

そんな風にエールを送ってくれているように
思えてなりません。

時を経て大人になり 今
チューリップの球根を手にして 
改めてその可愛さに気づきました。

とっても寒い日に 
フカフカな土に植えるからもう少し待っててね。


P.S. Dear.SHOKO

今年もお疲れ様でした。
2015年もあなたの心が動くもの
あなたの価値観を大切に。
丁寧にあなたらしく進みましょうね

From.わたしから私へ


 


3回目の命日に彼から届いた贈り物

2014年12月27日 02時22分00秒 | しっぽのついた可愛い大切な家族

2012年12月27日、今生 初めてご縁を紡いだ愛猫ミーシャが
12年と5ヵ月の猫生を全うしました。

その2日前のクリスマスの日は 最後の通院となりました。

この日は冬とは思えないほど あたたかで 穏やかな日でした。
病院から帰った午前中、大好きな車の上に ふらつきながらも
自力でジャンプして飛び乗り、今までそうしていたように
十数分という短い時間ではありましたが、
車の上に寝そべり 大好きな風景を眺めていました。

今日は3回目の命日です。

数日前の夜、「もうすぐミーシャの命日だなぁ・・・・」と思う中、
彼と過ごした12年余りの素晴らしい日々を思い返しながらペンをとり
 ちょっぴり涙しながら描きあげた作品はハートが一杯でした。

描きながら
「ミーシャどうしてるかなぁ 会いたいなぁ 触れたいなぁ・・・」
そんなことを思っていたら つけていたテレビから 
 薬師丸ひろ子さんの「僕の宝物」という曲が流れてきました。
(作品を描く時はテレビも音楽も流さないタイプなのですが)
こちら
http://youtu.be/HzVXpByPUFs?t=2m10s

2011年に発表された曲のようですが この時 初めて知りました。

「僕はここにいるよ どんな時でも」のフレーズを耳にした瞬間、
思わず手をとめ、耳と目を画面に向けました。

言霊と薬師丸さんの温かな音霊にジーンとしました。

それは紛れもなく ミーシャからのメッセージそのものでした。
嬉しく 静かな驚きでした。

神様は時々 当事者にしか分からないような粋な計らい
素敵な演出をして下さいます。

彼と私の魂は 今も尚 深く繋がっていることを
「僕の宝物」から改めて教えてもらい
言い知れぬ穏やかな感動に包まれました。

曲のタイトルもそうですが、
歌詞の中には「宝物」というの言霊が数多く出てきます。

生前、彼に対する私の想いを凝縮した言霊、
「宝の子」とかいた書を贈ったことがありました。
その書は神様の元にかえるまで 彼の好きな場所の1つでもあった
ピアノの上にずっと飾っていました。

荼毘にふす日、手紙と共に
彼の大好きだった庭に咲いていた花々は手向けたのですが、
「宝の子」の書を入れ忘れてしまったことが悔やまれました。
しかし、私の中に微かに残っていた小さなわだかまり、
思い残しを払拭するかのように 
3回目の命日にあの子が「僕の宝物」を介して
「大丈夫、あなたの気持ち ちゃんと届いているよ。
あなたも僕の宝物だよ・・・」
 そんな風に伝えてくれた気がしています。

死して尚、そのピュアな魂は
そっと私を見守ってくれている・・・・

寒さ厳しい年の瀬に心安らぎ 
ふわっと あたたかな灯がともりました。

ミーシャ、どうもありがとう。

あなたは ずっと ずうっと 私の中で生き続けているよ


お心寄せて頂きありがとうございました

2014年12月26日 22時22分00秒 | 感謝

去勢手術を2日後に控えた 生後7ヵ月、在りし日のミーシャ

子猫時代のあどけないミーシャの表情・・・・とても好きな写真です。

2~3才まで首輪をつけていました。



この1年 おりにふれ思ったこと、

それは

気にかける、心に留め置く

 忘れないということは 

愛の源、愛そのものである

ということでした。
 
自分以外の存在に想いを寄せ、気にかけるということに必要なのは

実はとってもシンプルで

真心からでる温かな言葉がけであり

笑顔なのかもしれません。

だいぶ時間が経った頃 突然 心にもない美辞麗句を

並び立てる人もいますが


気にかけるということは、

物理的な時間がどうのこうのと言い訳することや、

物質的なものをばらまいて解決しようなどとすることとは対極の 

水面に反射する 穏やかな煌めきにも似た

形なき美しいものなのかもしれません。

平気、平気が口癖で 足元を確かめることなく

ただ がむしゃらに 

前へ前へと進もうと力むとき

人は自分の体重でバランスを崩し つんのめります

過去からの繋がり 積み重ねで

今、ここに自分が在る、という事実をなかったことにして


今、この瞬間であり 

未来へと想いを馳せる人のなんと多いことか・・・

人が最も試されるのは

多大な金銭を自由に操れる機会を得た時なのかもしれません。

金銭が絡むと 無意識に損得勘定が働いて

乗りに乗ってる旬な人を本能のままに嗅ぎ分け、

本来パワーがあって 手を差し伸べる必要のない存在なのに

今後の自分のメリットの為に 分かり易い手段方法で

巨大なものに せっせと貢物を贈り続ける人・・・


必要な時に 必要としている存在に 

呼吸をすように 自然に そっと手をさしのべ


心とかす温かな言葉がけができる人 そんな人でありたい・・・・

この一週間、知人の言動を介して 私は大きな気づきを得ました。

これまでの私は 好きな人(同性、異性にかかわらず)とは

願わくば 似たような価値観で 色々なことを分かち合いたい、

共有したいと思っていたように思います。

けれど、ある人が実に何気なく語っていた言葉の端々に

自身との明らかな違いであり 違和感をみました。

そして、ポッとハートのチャクラから出てきた ほんとうに素直な思いは

「あ、やっぱり 私とは根本的に違うヒトだったんだなぁ~」でした。

そこには特別な感情の動きも 揺らぎもなくて

ただ 「あ、違うんだ」 だけが残り、

 それ以上でも それ以下でもありませんでした。

同時に、畏れるものは何もなく 欲しいものは思いのままに手にし

幸せであることを 声を大にして

みんなに語れる状況のそのヒトに対して

心の中で やっかみや うらやましさのそれではなく 

静かに お幸せで何よりですね、と思いました

人は相対して意見の交換をしなくても 時として 

誰かの書いた活字を介して、

「自分の考えはこのヒトとは違うんだなぁ」とか

「自分はこういう方が好き」とか

「自分はこれがしっくりくる」とか

「安らぐ」とか

そんな風に 自分の心地よさに 気づいたりすることも

あるのかもしれないな、と思いました。

なので、彼女には 私の大事な気持ちにきづかせてくれて

どうも有難うでした

私には師と呼べる人は殆どいませんが、

その中でも信頼できる師がいます。

3年前、師から

「普通に歩いていて ふっと立ち止まった所に癒しを与えたい、
野花に話しかけるようなイメージ・・・
あなたはそういうエネルギーを持った人」etcと
あることに対しての助言を頂きました。

聴いた直後も「あぁ、確かにそうだなぁ」と心に響いたのですが

今、この言霊は以前にも益してよりしっくりと

自身の中に響き渡り、「そうそう、そうなの、私」という感じです。

好みの問題ですが(笑)

色んな意味において 私は

 さぁ! もたもたしないでっ!! 取りに行くよっ!!的な

ガツガツした感じは やっぱり性に合っていません。

強い者に取り入ることも 自分の心を殺して損得考えた

 上手い立ち回りもできません。

というより、そうしたことはしたくないタイプなのでしません。

今日、お友達から 真心一杯のお手紙と共に 

 猫ちゃんの小物入れが贈られました

Holidayと描かれた この生成り色の袋に包まれていました。

ピアノの上で寝そべる茶トラの猫ちゃん・・・・

とても大きな深い意味があります。

ミーシャへの私の想いを心に留め置き、

彼の命日を意識してくれた彼女の思いやりが

ドドーンと届きました。

優しさをありがとうございました。






すばらしい1日、そして1年の締め括り

2014年12月22日 18時41分12秒 | ミュージカル




12月22日(月)新月、今年最後のミュージカルの見納めは
「MOZART」(マチネ)となりました。

帝劇におけるMOZARTの千穐楽は12月24日でした。
俳優陣の皆様、オケピの皆様、スタッフの皆様お疲れ様でした。

今年は1月のクリエでのミュージカルナンバーのコンサートを皮きりに
春は新作『レディ・ベス』 そして『MOZART』をそれぞれ数回づつ
観る機会を得、お陰で魂の洗濯が出来ました。

来年2月、3月はシアター・クリエでの
ミュージカル・コレクションがあるので今から楽しみです

      

今日は2つの予知がありました。どちらも結果オーライであり、
その後 嬉しい出来事がポンポンポンと重なった
ラッキーで有難い 感動的な1日となりました。

生れた時のお月様の形が ほぼ新月だったわたし。
やはり新月とはとても相性がいいように感じました。

1つ目の予知は・・・
朝、元々乗る予定だった電車の時刻が迫っていたのですが
帰宅する時は既に日が暮れている為、急いで洗濯物を取り込んでいました。
しかし、その電車には間に合いそうにもありません。
元々乗る予定の電車は ゆとりを持った時刻だったのですが、
もう間に合わないと知りつつも 何度打ち消しても
「この電車に乗らなければならない」という いつにない必然が湧きあがり
同時に「遅延」の文字が何度も頭をかすめました。
けれど、物理的に間に合わないので やむを得ず
1本電車を遅らせました。やはり・・・というか、案の定、ホームに着くと
「2つ前の○○駅で急病のお客様が」のアナウンス・・・・・
急病のお客様の安否が気になりながらも 
開演時間に間に合わないかもしれないという焦りも否めませんでしたが
その後 無事お客様は救出され約8分遅れで電車が到着してくれました。
遅延したこともあり、車内はいつもより混んでいましたが、
それでもラッキーなことに席に座ることができました。
その後列車は滞りなくスムーズに走ってくれ
結果、バタバタ走って劇場に向かうことも無く 
観劇前にトイレに立ち寄る事も出来、
劇場には開演10分前に着くことがかないました。

2つ目の予知は劇場に向かう道すがら、
いつもは全く気にも留めなかったというか
劇場には何十回も足を運び、周りの景色や
ウィンドウもこれまで眺めていたのですが
その場所に その銀行があったことすら気付かなかった
目に入らなかったのですが、今日は何故か その銀行だけが
ポンと浮き出たように印象的に目に留まりました。
留まっただけでなく、
「あら、こんな所にこの銀行があったのね」とも思いました。
今日は観劇後、寄り道しないで真っすぐ帰るつもりでいたので、
余分な現金は持ち合わせていませんでした。

この日 劇場で『MOZART』 DVD(10,800円)の
発売決定(来春完成)と共に予約受付中と知りました。
(売店で予約すると送料無料の特典付)
(帰宅後HPで確認した所、12月5日発売決定とありました。)
これまでレ・ミゼラブル、ローマの休日、マリー・アントワネット、
エリザベート、モーツァルトetc・・・と
ミュージカルのCDは発売されていましたが、
DVDの発売は初めてだったので嬉しい驚きでした。
(映像を通して何度も山口さんを観ることが出来るので
しかし、現金を持ち合わせていなかったので、
「来春完成予定なら、今日 事前予約しなくても来年の6月~8月に
帝劇で上演されるエリザベート観劇の際に売店で求めればいいわ」と
クルッと踵を返し出口へと向かったのですが、
ふいにエリザベートのチラシが目に入ったので手にすると、
なんと大変驚いたことに、レ・ミゼラブルに続き
10年以上に渡り エリザベートを牽引されてらした、
といっても過言ではない山口さんが
2015年のエリザベートにはご出演されないことが分かりました。
ガガーン
メインキャストも一新され、正直 エエッなぜ?な気持ちが
ぬぐえませんでした。
エリザベートは目を見張る豪華な衣装もさることながら
そのストーリーも素晴らしく何度観てもうっとりし溜息がでます。
 来年もエリザベートの再演をそれはそれは楽しみにしていたので
もぉ、ほんとうにショックでした・・・・・

私にとって 山口さんの出演していない舞台は
海苔の巻いていない巻物と同じで味気なく意味がありません。
舞台がはけ、既に時刻は16:30をまわり、
スタッフも入口をクローズしようとしている中、
劇場に入る前に目に留まった帝劇からほど近い
自身の口座のある銀行へ走りました
往復5分もかからず劇場に戻り、何とかギリギリ
DVD予約に間に合いました。
劇場入りする前、この銀行が目に(心に)留まったのは
その数時間後に ここに立ち寄りお金をおろすことになっていた
予知だったと気付きました。

理由なく何故か気になって仕方ないこと、

打ち消しても 打ち消しても フワッとそれが浮かび
また、ヴィジョンとして視せられること、
普段目に留まらなかったものごとが あれ?と印象的に目に留まり
ずっと心に残ることは、あなたにとって必要なことを示唆してくれる
大切な予知というメッセージかもしれません。

帰り、東京駅から下りに乗る時、
いつもは1本~2本電車を見送り並んで座るのですが
今日は、発車寸前の電車に乗り込みましたが、
立っている人もいる中で、BOX席が空いていたので
行きと同様、すんなり座ることが出来ました。
ホームで寒い中、数十分待つことも無く
割と混んでいる車内だったのに、これまたラッキーでした。

最寄りの駅に隣接したパン屋さんで買い物があったのですが、
開いたドアの目の前は丁度階段で、階段もススッと登れました。
乗車する際、階段の位置などを考えて乗った訳ではないので
これまた絶妙のタイミングに有難いな~と思いました。
またパン屋さんでは大好きなパンが売り切れだったのですが、
なんと、店内に入ってすぐに、そのパンが焼き上がり
これまた、嬉しい出来事でした。

こんな風に、今日は私にとって ちいさな喜びが
一杯あり、とても嬉しい日でした。

          

MOZARTは11月、12月共にチケットがとれたのですが、
なんと今日は最前列のお席でした
これは神様から1年間お疲れ様、と頂いた
ご褒美のような気がしました


いちおオペラグラスは持参しましたがやはり出る番はありませんでした。
これまでも何度か最前列のお席だったことがあるのですが
俳優さんの表情や衣装も涙も 汗もクッキリ、ハッキリ見え、

スピーカーから流れる音楽も 歌も セリフもクリアで
いつも以上にドドーンと胸に響き渡りました。

先月は鼻声で少しトーンダウンしている様に感じられた市村さんでしたが、
今日はいつものパワフルな市村さんで安心しました。

山口さんは・・・・本当に素晴らしいのひとことでした

山口さん扮するコロレド大司教が揺れる馬車から一旦降り
よう を たすシーンは  今やファンの間では(私だけ?)
楽しみな 1つの見せ場のようになっています。

というのは、サービス精神旺盛な おちゃめな山口さんは毎回、
微妙に演出をかえられるのです。
(恐らく)その日のお客さんの雰囲気を瞬時に読みとられ、
それに合った(?)演出をして下さるように感じているのですが
今日も先月とはまた異なった オーバーアクションで
その端正なお顔立ち、お姿からは想像できない(笑)
ユーモアたっぷりの
(オ○ッコをもうこれ以上我慢できない・・・という)
過剰気味の演出をして下さり、客席の笑いを誘いました。

思い込みかもしれませんが
3時間弱の舞台の中で3度程山口さんと目があった様な気がし(笑)
今でもそのシチュエーションを思い出すと、
幸せな気持ちに包まれます

追記:後日、24日のカーテンコールの模様を動画で観たのですが、
Wキャストでコンスタンツェ役を演じたソニンさんが
この舞台に出られたことが嬉しいと感動の涙を流されて
いらっしゃるのがとても印象的でした。また、この時、
井上さんがモーツァルトを卒業するということも知りました。

楽日のカーテンコールの醍醐味、楽しみは
何と言ってもメインキャストの生の言葉がきけることですが
今回もまた、大御所山口さんは 市村さんと井上さんの
盛り上げ役(控え)に徹してらっしゃいましたが、
それでも ちゃめっけ全開、
ユーモアたっぷりにそしてチャーミングに
出演者、客席の笑いをさらっていらっしゃいました。
それはファンクラブの集いで見せる山口さんに近かった様に思いました。

 この作品は、額装しアトリエに沢山飾ってある
敬愛する山口さんの写真やスクラップを時々見て
頬をチョッピリ緩め ニコニコしながら心健やかな状態、
ミュージカルの感動の余韻に浸りながら描きました。

私の「好き」を象徴するかのような(笑)
一杯の画は、どこか孔雀が羽根を広げたようにも見え
ラメを使った華やかな仕上がりに「心は隠せないもの、本当に素直だわ」と、
完成した画を見ながら1人思いました。

来年、また魂の安らぎである 山口さんの美声を聴きに行けることは
このうえない歓びであり、至福のひとときです。

今年も沢山ありがとうございました。


いかなる時も基準は自分

2014年12月02日 01時43分09秒 | Art (ラメ)



『基準』という言霊が浮かび 
同時に
「基軸は自分」と 感じさせられた。


自分であり続けるということは、

人の言動に一喜一憂しない、動じない事であり
むやみやたらに傅(かしず)かないことである
そんな風に思わされた。
そして手の動くままに描いたこの画
中心の煌めきは「自分」であり
自分から外へと確かに放たれる光に
人の魂の美しさと
限りない可能性を視た気がした。