中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

サービス

2006-10-11 09:07:50 | 中国のこと
 中国語辞典で「サービス」を引くと「服務(fuwu)」とある。しかし、この言葉はあっても、かつての中国ではおよそサービスと言う概念などは存在しないかのように、店などでサービスらしきことはなかったようだ。従業員を服務員(fuwuyuan)と言うが、要するに服務(仕事に従事)さえしていればいいので、客にサービスなどする必要などないということなのだろう。まして笑顔などは期待もできず、仏頂面で対応されるのが当たり前のことだったようだ。特に国営企業はひどく、西安の李真は買い物をしても店員に怒鳴られることさえあったそうだ。中国での官の民に対する態度の横柄さ、尊大さは、中国人にとっても不愉快なことらしいが、国営企業の従業員は公務員だから、そういう態度になるのだろう。旧ソ連でも国営企業での店員の無愛想さ、横柄さはよく話題になっていたが、お客さんなどという考えなどはなく、売ってやるということだったのだろう。

 国営企業でなくても小さい店でも店員の態度の悪いことは、今でもあるようだ。前にも紹介したことがある埼玉大学教授の山口仲美さんの「中国の蝉は何と鳴く?」(日経BP社)には、北京の小さな写真屋の若い女の子の店員のあまりにも態度の悪い応対に呆れた体験がある。読んでいても腹が立つような、日本ではとても考えられないその小娘の態度は、山口さんの中国人の友人も「前にも喧嘩して、感じが悪いからもう行かない」と言ったくらいのものらしい。それでも店が成り立っているのが不思議でもある。それに疑問を持たない中国人がまだまだいると言うことなのだろう。

 数年前に上海の繁華街の淮海路(Huaihailu)の茶店で買い物をした時、店を出たら同行していた卒業生の女性が「お釣りを投げて寄越すのよ」と呆れたように言った。別に悪意があって投げつけたということではないが、ぽいと彼女の前にほうったらしい。店員としてはごく普通の行動だったのだろうが、日本ではおよそ考えられないことだから彼女が驚いたのは無理もない。私も経験したことはある。まるでトランプを配る時のように、ひょいと釣銭を手から離してカウンターに投げやる程度なのだが、やはり日本人にとってはあまり感じの良いものではない。それでなくても、中国の店で「有難うございました」などという言葉を期待するのは、およそ無駄と言うものだ。売り手が客に感謝するなどとは考えられないことなのだろう。

 上海の旅行社に勤めている唐怡荷は、日本に来て会社勤めをした経験もあって、かなりの親日家だが、それだけに同胞の態度、とりわけマナーについては日本の場合と比較して手厳しい。以前あるレストランで食事をしようとしたが、あいにく混んでいたのでしばらく待つことになった。店の入り口の前には日本のレストランにもあるような予約台があり、その前に制服を着た若い女性の従業員が3、4人いて喋っていた。その様子を見て唐怡荷が私に「あれを見て。ああいう態度でしょう。自分達の仕事が何なのか分かっていないのよ」と苦々しげに言った。果たしておしゃべりに夢中になっていたせいか席が空いても私達に知らせず、こちらから催促してやっと店内に入れたので、彼女はますます不愉快そうな顔をした。

 しかし、こんなことばかりではない。西安から洛陽まで列車で行った時、途中で回って来た車内販売係の女性は親しそうな笑顔で愛想が良く、しばらく談笑したし、ホテルの売店の女性達も外国人相手が多いということもあるのか概して愛想は良く丁寧な応対をする。西安のレストランで2階にあるトイレに行こうとしたら、上から男性の店員が下の女性店員に声をかけ、彼女は階段を上る私の腕を取ってくれ、降りる時にはその男性が支えてくれたのには恐縮した。中国でも経済発展に連れてサービスは、だんだん良くなっているのだろうとは思う。経験したことはないが、列車の切符販売や郵便局などではどうなのだろう。銀行では特に愛想が良いことも悪いこともなく、ごく事務的だった。

 最近乗った中国民間航空(民航)の便は、JALとの共同運航便で、珍しく機体はJALのもので客室乗務員は全員日本人だったが、皆笑顔で丁寧な応対だった。日本と中国の間を運航する民航の国際便には、普通は日本人の乗務員は1名くらいしか乗っていないが、中国人の乗務員に比べるとにこやかで物腰が丁寧だ。中国人の乗務員は無愛想と言うことでもないのだが、何となく事務的で暖かさに乏しいことが多いように思う。

 よく言われることだが、日本ではサービスということが徹底しているようだから、これに慣れて当たり前と思ってしまうと、どの国に行ってもサービスは良くないと感じるだろう。