中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

地蔵堂のノラ達

2006-10-12 18:25:51 | 身辺雑記
 街に降りていく途中に小さな地蔵を祭る祠がある。どこかの企業が寄進した休憩のための建物で雨ざらしにならないようになっている。いつもきれいに掃除され花も取り替えられている。この地区に古くからあるのだろうが由来は知らない。



 ここはまた野良猫の溜まり場でもある。いつごろからそうなったのか、以前犬を飼っていた頃は猫には関心がなかったので覚えていない。猫を飼うようになってから興味を持つようになり、通る時には立ち寄って見るようになった。最近は数匹だが、去年のある時期には十数匹もいて、夏の夕方などに建物の屋根の上にも寝そべっていてなかなか壮観だった。それぞれの休んでいる姿態が面白く、立ち止まって見ていたものだ。






 一口に野良猫と言ってもさまざまな大きさや毛色、顔つきのものがいて、見ていて飽きない。それに猫を飼うようになったせいか、どの猫も可愛いと思うようになった。時には連れて帰ってみたいと思うこともあった。どれももちろん雑種で、およそ由緒、血統のまともなものなどはいないが、ノラはノラの面白さがある。いつの間にか、やっと目が開いて間もないような子猫がミャアミャア啼いてよろよろ歩いていることもある。祠の近くのどこかで生まれたものだろう。何匹も見ることもあり、どれがどれの子か、これとこれはきょうだいだろうなどと考えるのも面白かった。









 我が家の猫に比べるとやはり野良猫は違っている。何と言っても警戒心が強い。近づくとじっとこちらの様子を窺い、ある距離までになるとさっと逃げる。それに概して目つきが悪い、と言うか鋭い。我が家のミーシャももともとはノラの子だったが、生来の気質もあったのか、穏やかで人懐っこく、近所でも可愛がられている。ミーシャと見まがうばかりによく似たのがいたことがあるが、よく見ると目つきが違っていた。やはり環境の影響も大きいのだろう。



 ここの猫達を、かつてある老婦人がよく世話をして、餌を与えることはもちろん、避妊手術も受けさせたと言うことだ。よほどの猫好きなのだろう。他にもそのような人がいるのか、建物の隅には寝るための箱が置いてあり、冬にはタオルなどを敷いたり、ビニールの布で覆ったりしているので、その中に何匹も重なって寒さを避けて丸くなっている様子もまた面白かった。餌もいつも置いてあった。

 しかし猫好きがいれば猫嫌いもいるのは当然で、それに何と言ってもこういう場所だからだろう、ある時ねぐらや餌の容器がすべて取り払われ、「猫による迷惑をなくしましょう」と書いた役所のポスターが貼られた。さすがに猫そのものを駆除するのは気が引けたのか困難だったのか、猫党の「良識」に訴えたのだろう。私は、それまで餌をやったことはなかったがある夕方薄暗くなった時に、たまたま持っていたパンを何気なく千切って与えていたら、離れた所から1人の婦人に「おじいちゃん。おじいちゃん。餌をやったらあかんよ。書いてあるやろ」と叱られたことがあった。しかし、その当座は姿を見せなくなったノラ達はやがてまた戻ってきたし、餌をやる人も復活した。いつの間にかポスターもなくなった。今でも時々若い女性が餌を持ってきて与えているのを見かける。そのいとおしそうな様子を見ていると、猫が好きなのだが家では飼えない事情があるのだろうかと思ったりする。



 このところ再びポスターが貼られた。また「浄化作戦」が始まるのか。私は今では猫好きになっているので、ここで猫達を見るのは心慰められるものがあるが、しかし、やはり公共の場所なのだから、ノラの溜り場としては不適当なのだろうと複雑な気持ちになる。