中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

再虐待

2010-12-13 20:07:13 | 身辺雑記

 親による子どもの虐待が跡を絶たない。虐待が把握されると児童相談所が介入して親元から保護するが、改善の可能性があると判断されると子どもは親元に帰される。

 

 ところがそうして親元に返されても再び虐待される「再虐待」を受けていた子どもが多いことがNHKの調査で明らかになったそうだ。全国の児童相談所すべてを対象にアンケートを実施し、91%に当たる回答を得た。それによると、昨年度1年間に虐待を受けたとして、児童相談所が親元から保護するなどして対応した子どもは3万7205人で、「再虐待」を受けていた子どもは、8140人に上ることが分かった。

 

再虐待が起きた理由で最も多かったのは、「子どもへの愛情がもてない」で35.1%、次いで「うつ病などの病気の悪化」が30.6%、離婚や再婚など「家族状況の変化」が28.2%などとなっていた。親としては止むを得ない事情もあったにしても、それが再虐待になったのでは、何の罪もない子どもとしてはたまったものではなく、よりいっそう心に深い傷を負わせることになるだろう。子どもが最初に知る愛情は親から受けるものだ。それを一度ならず何度も受けるようでは、愛情というものを知らずに成長し、心にひずみを持ったまま過ごすことになり、もし結婚して子どもをもうけても、虐待の「再生産」を引き起こすことになりかねない。

 

街では幼い子どもに優しく接している親(父親も母親も)を見ることが多い。そのたびにそのような親の姿を好ましく思い、その子どもは幸せに育つのだろうと思う。その反面、このような親ばかりでなく幼い子どもを虐待する親がいるのだろうと、暗い気持ちになることもある。

 

 何のゆかりがなくても、幼い子どもは可愛く愛しい存在だ。このようなあどけない子どもをどうして虐待できるのだろうか。いや、幼な児でなくても我が子は愛しい存在のはずだ。とりわけ母親にとっては産みの苦しみを経験して授かった子どもなのだ。我が子のためには何をおいてもと考えるのが親というものだろう。「子どもへの愛情がもてない」とは親として哀しい限りだ。

 

 西安の謝俊麗が言ったことがある。「(息子の)撓撓(ナオナオ)が悪い時には叩きたくなることもあるけれど、可愛い時には感動するくらい可愛く思う」と。その気持ちはよく分かる。「ああ、なんて可愛いのだろう」と感動するくらいに我が子を可愛く思えてこそ、親としての幸せがあるのだと思う。

 

           

 

うそ払い

2010-12-13 11:09:37 | 身辺雑記

 鳥取県米子市の民間の観光施設が、この1年のウソを帳消しにする「うそ払い」を行い、大勢が参加したというニュースを読んだ。

 

 この行事は地元に伝わる、豆腐を食べると1年間のウソが消えるという言い伝えに民俗行事「うそつき豆腐」にちなんで9年前から開いているのだそうで、設けられた祭壇に普通の豆腐の20丁分もある大きな豆腐が備えられて、地元の神官が祝詞を上げてウソが帳消しになるように祈願した。このあと、地元の人や観光客などおよそ250人が、豆腐や白菜が入った鍋などをつつきながら、この1年についたウソを披露したと言う。

 

 ウソと言っても、「子どもの頃は戦争で勉強どころではなかったのに、中学生の孫には“一生懸命、勉強していた”と話した」とか、「夫には“なくなった化粧品を買うから”と言って実はへそくりに回した」などという罪のない他愛ないものだ。会場には「うそ払いの鐘」も置かれて、年間についたウソの数だけついたり、ついたウソを書いて投函して、神社でうそ払いをしてもらえる「うそ入れポスト」も設けられたそうだ。

 

 地元の言い伝えというのはいつの時代からのものかは分からないし、なぜ豆腐なのか定かでないが、人間誰しもちょっとした、ウソとも言えないウソはつくものだ。それでも何かしら気に掛かるので年の瀬には吐き出してすっきりしたいということなのだろう。私などは年を取って厚かましくなっているので、「嘘も方便」とばかり、何度もウソをついたように思うから、「うそ払いの鐘」をついたら、火事場の半鐘のようなやかましいことになるだろう。もっともどれも、どんな時にどんな場面でついたのかは思い出せないし、閻魔様に舌を抜かれるような、人を騙すような本格的なウソはついたことはない。

 

 巷には詐欺が横行しているが、「振り込め詐欺」など冷静に考えれば騙されることはないだろうと思うのだが、ヒトの弱みに付け込むウソは悪質で、舌抜きの刑などはないが、厳しく罰せられるべきだ。それに東京の永田町あたりには、素朴な「うそ払い」くらいでは到底払いきれないような、舌を何枚も持った御仁もいるのではないかと思ったりする。