私の父は酒好きだった。毎晩晩酌は欠かせないようだったが、料理上手だった母の手料理を肴に、穏やかに楽しそうに飲んでいた姿を今も思い出す。
前にも書いたことがあるが、父は母の手料理の他に、市販の肴も好んだ。イカの塩辛はもちろん、ちょっと口が奢っていたこともあったから、うに(雲丹)、からすみ(鱲子)、このわた(海鼠腸)などの、いわゆる日本3大珍味やアユのうるか(鱁鮧,潤香)なども、高価なものだからいつもではないが、時折父の食卓に上がった。子どもには優しかった父はそのようなものを、側で見ている私にちょっと舐めさせたこともあり、幼い私も生意気にその味が気に入って、名前も覚えた。長じて酒のほうはまったくだめでも、このような酒肴にはずっと興味を持ち続けてきたが、うにやイカの塩辛くらいは買うことはあっても、そのほかの珍味類は高嶺の花と見ていた。
小泉武夫『発酵食品礼賛』(文藝春秋)で「メフン」という珍味があることを知り興味を引かれていたが、最近になってインタネットで通販しているのを知ったので購入した。
メフンは鮭の中骨に沿って付いている腎臓を使ってつくる塩辛で、語源はアイヌ語の「腎臓」を意味する「メフル」からともされ、漢字では「女奮」という字が当てられているそうだ。上に挙げた珍味類はどれも辞書に載っているが、メフンは例えば広辞苑にもないから、一般的なものではないのだろう。しかし北海道や東北地方の一部ではよく知られていて非常に人気があるのだそうだ。
色は黒褐色でどろりとしていて、小泉さんは「何となく見た目はよくないが、鮭の肴にするとそのあまりの美味しさに感動すらいたすものである」と書いている。酒の肴としてはもちろん、ストレスを回復させるビタミンB12や鉄分が豊富に含まれているので、健康食品としても注目されているのだそうだ。私は酒の肴にはしないが、食べてみると下戸のせいか感動まではいかなかったが、なかなか美味で気に入った。
それにしても、鮭の腎臓を塩辛にするとは、いつ、どのようにして思いついたものか。ボラの卵巣からつくる「からすみ」は、卵巣だから塩漬けにでもして食べてみようとしたのは分かるが、アユヤナマコの腸を使う「うるか」や「このわた」などになると,はじめから酒の肴として思いついたのではないだろう。どうして腸などに目をつけたのか。人間というものは食については飽くなき好奇心と探究心があるものだと思う。
おそらく父はこのメフンは食べたことはないだろう。食べさせてやりたいと思う。目を細める父の顔が思い浮かぶ。