この世に生を享けたことは、自分自身の選択ではないし、親も選べるものではなかった。それに親がつけてくれた名前も自分が選んだものではない。あまり好きでなかったり、縁起を担いで名前を変えることはできないこともないが、戸籍上の名前を変更するのはなかなか難しいことだから、変えても通称くらいにとどまってしまう。
私の名前は「亮(りょう)」と言う。幼い頃、私はこの名前が好きではなかった。今からすると偏見でしかなかったが、当時は日中戦争のさなかで、この一字の名前が中国人(当時はシナ人と呼んでいた)のようだからと思ったからだ。今では「諸葛亮、字は孔明の亮」だからとまんざらでもない気分になるから現金なものだ。
「りょう」以外に「あきら」と呼ばれることもあったが、元来は「亮」は「明らか」という意味だから間違ってはいない。大学生の頃、植物学の教授の授業で最初に出欠をとるときに「すけ」と呼ばれた。これも武士の名に「○○亮」というのがあるので誤りではないが、「すけ」だけでは様にならないから、友人達は失笑し、私は几帳面に「りょうです」と言った。
呼び方よりも書くほうではずいぶん間違えられた。だいたい相手の名前を書き誤るのは失礼なことなのだが、私の場合はよく「亨(とおる)」とか、「享(きょう)」とか書かれる。高校の教師だった頃、担当していたクラブの生徒が寄越した年賀状には「亭」とあって、何だか寄席か何かみたいだと笑ってしまったことがある。その生徒からは今も年賀状がくるが、さすがに間違ってはいないが、いつも「亭」を思い出してしまう。
電話で名前を伝える時は「鍋蓋の下に口を書き、その下に片仮名のワ、その下にカタカナのル」と言うと、正確ではないがイメージとしては分かってもらえる。「俳優の田村亮の亮です」ということもあり、これもだいたい通じる。中国ではいささか面映いが「漂亮ピャオリャン(美しい)」の「亮」と説明する。
何年か前に、私の上司だった人から著書が送られてきた。ぱらぱらページをめくると在職中の自分の「業蹟」をまとめたもので、さして興味は惹かれなかったが、見開きを見ると「進呈」とあって私の名が記されていて、それが「亨」になっていた。この人の元で働いたのは10年以上にもなる。それなのにこれかと鼻白んでしまった。この人にとっては私は所詮この程度の者だったのかと思い、本はごみ箱に放り込んでしまった。