中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

異様な司法のあり方

2011-02-21 13:16:31 | 中国のこと

中国という国については、時折日本人の常識では理解できないことがあるが、最近も一読して溜息が出るような新聞記事を見た。

 

 1988年の10月に北京市郊外の国営紡績工場で臨時工員をしていたNさん(当時20歳)は遊び仲間と一緒に路上で男性から帽子を奪ったり、知人宅のガラスを割ったとして逮捕された。半年後に北京市の裁判所は、「社会秩序を乱した。犯罪性は重大」として死刑(執行猶予2年の判決を下した。不良行為を禁じる流氓(りゅうぼう=ゴロツキ)罪の適用だった。

 

 中国では80年代の初めに文化大革命で農村に下放された大量の若者が都市部に戻り、就職難もあって治安が悪化した。当時の最高実力者の小平は「穏健な手法では問題は解決しない」として、1983年に大掛かりな治安強化運動を始めた。これを「厳打」と言い、流氓罪が適用されて、1年間の逮捕者は102万人、2万4千人が死刑(執行猶予付き?)になったと言う。中には恋人との喧嘩に対して懲役4年に処するなどの極端な刑が乱発されたそうだ。

 

 上に挙げたNさんは破目を外した行為をする若者の類だったのだろうが、それにしても帽子を盗んだだけで死刑とは信じられない話だ。「厳打」は中国政府の「捕まえるかどうか迷ったら捕まえろ。殺すかどうか迷ったら殺せ」というスローガンの下に実施されたそうだが、いかに治安の悪化があったにせよ、このような乱暴極まりないスローガンを打ち出した、当時の国家指導者のありかたは異様としか言いようがない。共産党一党支配の中国では、警察も司法も党の方針に言いなりであることはよく知られている。

 

 Nさんは北京から3千キロ離れた新疆ウイグル自治区でダム建設の労働を科せられたが、服役態度がまじめだったとして3年後の86年に無期懲役に減刑され、90年には懲役18年の判決が再度出されて、刑期は08年までとされた。Nさんは病気だったので、自宅療養が許され、年ぶりに北京の自宅に戻った。  (続)