急に三味線が聴きたくなって、通販でCDを2枚買った。1枚は一中節(いっちゅうぶし)、もう1枚は新内。
三味線を聴きたくなったのは、幼い頃の思い出のようだ。幼い頃はラジオでよく浪花節をやっていたが、子どものことだから特に浪花節そのものに興味を持ったわけではないし、懐かしく思うこともない。ただ夏の夜に庭で夕涼みをしていると隣家から浪花節が流れてきて、夕闇の中で三味線の音が聞こえてくる、その雰囲気が何か懐かしかった。
長じてからも特に三味線に興味を持ったわけではない。時折長唄などを耳にすることはあっても、何か辛気臭いという感想しか持たなかった。長唄に限らず邦楽そのものに興味が持てなかった。それなのに急に三味線を聴きたくなったのは年のせいもあるのかも知れない。
一中節を選んだのは他愛ない理由からだ。宇佐江真理『神田堀八つ下がり』(文春文庫)所収の短編『浮かれ節』の主人公である無役の武士が一中節の女師匠について稽古し、その道一筋になっているという筋立て、ただそれだけのことだった。新内の方は私の少し年下の知人の女性が好きだと言ったので付け加えた。
購入した一中節のCDには、新作(昭和26年作曲)の『須磨の月』と江戸時代の古典『東山掛物揃』の2曲が収められている。一中節は浄瑠璃の一種で、国の重要無形文化財に指定されていて、元禄から宝永ごろにかけて京都で創始された。先行する浄瑠璃の長所を取入れ、当時勃興してきた義太夫節とは逆に、温雅で叙情的な表現を目指したところに特色があり、全体的に上品かつ温雅、重厚なのが特徴だそうだ。『須磨の浦』を聴いてみると、なかなか良いもので落ち着いた気分になった。特に辺りが静かな夜聴くと情緒がある。もっとも初めてのことなので、「上品、温雅、重厚」ということまではわからなかった。それに、「思いきや、ついぞ着馴れぬ旅衣、」で始まる浄瑠璃は朗々と謡われて、なかなか良いものなのだが、「おーもーーいーきーーやーー」とゆったりと引き伸ばしたりするので、最初は何を言っているか分からなかったけれども、付いている詞書を読みながら聴いているうちにしだいに慣れてきた。
『東山掛物揃』は河東節(かとうぶし)との掛け合いで演じられている。河東節は一中節と同じく浄瑠璃の一種で、国の重要無形文化財だが、享保二年(1717年)に創始されたと言う。語り口は豪気でさっぱりしていて「いなせ」であると解説にあるが、私には一中節とどう違うのかまったく分からない。使う三味線も一中節とは違うらしい。それでも聴いているとやはり心地よい。昔の人は、一中も河東も聴き分けて、それぞれ好み、贔屓があったのだろう。
新内節も浄瑠璃の一派で、「流し」と呼ばれる独特の形式を生み、江戸情緒を代表する庶民的な音楽として知られている。きわめて歌う要素のつよい浄瑠璃ということで、聴いてみると、「余韻嫋嫋」と表現される高音の唄は分かるところも少なくない。一中や河東とは趣の違うものだがこれも良いものだ。
思いついて買ったCDだが、古典の曲の良さが予想以上に気に入った。これから秋が深まるにつれて、静かな涼しい夜に聴くといっそう情趣があるだろうと思う。