中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

少女、女の子

2011-10-21 09:46:43 | 身辺雑記

 いつものJRの駅構内のエキナカスーパーの喫茶室に行き、本を読んだ。私の左隣の席には2年生くらいの男女の高校生がいた。床にバッグを投げ出していたから学校帰りらしい。もう午後7時を過ぎている頃だった。   

 

 高校生のカップルなど最近珍しくもないし、その2人は小声で話していたので、とくに気にすることもなく本を読んでいたが、しばらくすると私の隣の女の子の方が何やらがさがさする。ちょっと煩わしかったので顔を上げると、その女の子はテーブル越しに手を伸ばして、前にいる男の子の髪の毛をしきりに撫でている。顔を見るとその子は少し顔を傾げて、男の子をじっと見つめながら髪の毛を触りまわしている。男子は別にうるさそうな様子もなく黙って触られるままにしている。いつまでもがさがさしているので、いささか落ちつかなくなり、読書を止めて店を出たが、出掛けに2人の顔を見てもまったく気にしないで、自分たちの世界に没頭している様子だった。 

 

 家に帰って、ふと島崎藤村の『初恋』を思い出した。改めて調べてみると、この詩は明治28年(1895)に刊行された『若菜集』所収のもので、私が好きな詩で四連からなり、その最初は、 

 

   まだあげ初めし前髪の
  林檎のもとに見えしとき
 前にさしたる花櫛の
 花ある君と思ひけり

 で始まる。そしてその第三連は

  わがこゝろなきためいきの
 その髪の毛にかゝるとき
 たのしき恋の盃を
 君が情けに酌みしかな

 

 と言うもので、今ならなんでもないようなものだが、その当時は「わがこころなきためいきの/その髪の毛にかかるとき」はあまりにも官能的で初恋の初々しさにそぐわないと言う批判があったようで、藤村自身もそう思ったらしく、後に定本版の「藤村文庫」の中では削除されていると言う。私が見た高校生たちの仕草などは、当時ならとんでもないふしだらな行為とされるだろう。

 

   まだあげ初めし前髪の」とあるが、前髪を上げるのは江戸時代なら12、3歳くらいだが、この詩に詠われているのは結婚適齢期前の15、6歳の「少女」だったのではないか。ちょうど私が見た女子高校生くらいの年齢ではないかと想像する。しかし私が見た子はこの詩から想像されるような初々しい恥じらいのあるものではなく、「少女」と言うにはそぐわないように思う。まあ「女の子」と言うくらいのところではないか。今は掃いて捨てるほどいる。 

いったい「少女」と言うのは何歳くらいの女の子を指すのだろう。私が大学生の頃は「少女」と言うと高校生くらいをイメージしたもので、それには「清純」、「清潔」、「清楚」などのイメージを重ねていたように思う。だから小学生などは「幼女」と言うくらいの感覚だった。それが今では「少女」と言うと、小学校の上級生から中学生あたりを想像する。  

 と言って「女の子」の範囲も広がっていて、20代半ばくらいまでを含むようになっているようで、256にもなって「女の子」でもあるまいと思うのだが、そんなものらしい。下の方がませて、上の方が幼稚になっているのだろうか。 

 

 どうも老人臭い感想になってしまうのだが、私は高校生くらいの女の子は、藤村の詩にあるようなものであってほしいし、私が大学生の頃に心に描いていたイメージのような存在であってほしいと思う。時代遅れか。 

 http://www.youtube.com/watch?v=Xg2q_CcGIIw