中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

カメキチ

2011-10-22 21:39:52 | 身辺雑記

 昔の教え子で、千葉県の印旛郡のある町に住んでいるS君から電話があった。この正月に電話があってからのことだから9ヶ月ぶりだ。挨拶めいたことや、ちょっとした近況などを交わしてから、「それで何なの?」と尋ねると「いや、ご無沙汰してるからちょっと話したくなって」ということで、何となく嬉しくなり、その後いろいろ話した。

 

 S君は私が高校の教師になった時に最初に教えた学年の生徒で2年生だった。教師になりたてで大いに張り切っていたし、この学年の生徒達も親しく接してくれて、私にとっては想い出が多い。「70になりました」と言ったので「へえ、もうそうなるか」と、私より8歳年下の学年だから、もうそれくらいになるだろうと思っていたが、改めて言われるとずいぶん歳月がたったものだと感慨深かった。

 

教え始めてしばらくしてS君は私のいる生物準備室にやって来た。先任の教諭が「カメキチだ」と紹介してくれた。話を聞くとカメが大好きで、家の池に何匹も飼っているとのことだった。当時は今のように外来種のミドリガメなどはなく、クサガメや、今では少なくなったイシガメなどを飼っているようだった。S君は年生の時には生物クラブに入っていたそうだが、クラブの雰囲気に馴染まずやめてしまったと言った。

 

S君が私のところへ来た理由は、カメの遺伝の研究をしたいということだった。私はカメのことは知らないから、生まれて何年くらいたてば成熟するのか、個体によってどんな特徴があるのかなどいろいろ尋ねたが、成熟までにかなりの年月がかかるようだし、個体ごとの目に付くような特徴もないようだから、遺伝の実験には向かないなと答えた。彼はさほど気落ちした様子もなく納得したが、そのあとはカメについていろいろ話をした。どういう契機でカメに興味を持ったのかは忘れてしまったが、とにかくかなりのカメ好きであることはわかった。

 

私は「カメキチ」は「亀吉」という愛称かと思ったのだが、どうやら「本キチ」「山キチ」「車キチ」の類の「キチ」だったようだ。以来彼は準備室や生物クラブ員達がいる生物実験室にたびたび出入りするようになり、私も折々「カメキチ」と呼んで親しくなったが、生物クラブに入ることなく、やがて卒業して行った。卒業後は折に触れて連絡もあり、消息はよく分かっていたし、結婚前には婚約者を連れて我が家を訪れてきたこともある。大学を卒業してからは、自営で男物のスーツの輸入生地を販売していて、上等のカシミヤのセーターやマフラーを贈ってくれたこともあったが、もう引退した。

 

それでも年月がたつにつれて会うこともなく、時折電話の遣り取りをするくらいだった。彼は年賀状は出さない主義なので、私にも寄越さないが、元旦かその2、3日後くらいには電話をくれるから、疎遠になることはなかった。5、6年前にその学年の学年同窓会があったときにわざわざ出てきた。同窓会の前日には彼と仲が良く、私も結婚式に出たことがあるK君と3人で食事した。高校生の頃には色白だったのが日焼けして逞しくなっていた。その後にあった昨年の同窓会にも出てきて、やはりK君と食事した。相変わらずカメを飼っているようだし、アルバイトで公共の仕事の草刈りもやっている、テニスもしているとのことで感心した。

 

 電話では、今はカメの他に50センチくらいのウナギも3匹飼っているとのことで、相変わらずのカメキチだ。草刈りもテニスも続け、毎日5千歩のウォーキングもしていると言う。元気なことだ。体力が落ちてきて、毎日外出には杖を頼りにしている私とは大違いだが、卒業生がいつまでも元気でいるのは嬉しいことだし、卒業して50年以上もたつのに、ふと思い出して電話してくれることは教師冥利に尽きるものだ。

 

   

 

                  イシガメ(インタネットより)

 


あの子達

2011-10-22 13:29:22 | 身辺雑記

かつて担任したサナエから電話があった。同じクラスだったマリコが福岡に引っ越すので、その前に食事しようということだった。こういう話はもちろん大歓迎なのですぐに承知した。当日は大阪の梅田で待ち合わせることにしたが、約束の場所に行くと他にユウコととアケミの2人も来ていた。昼食はサナエの娘が関係しているホテルのバイキングでとることになった。

 

彼女達は45年前の高校1年の時に担任をした。学年に1クラスだけある商業科というクラスだった。商業科は戦後の新制度が発足して以来設置されていたが、普通科志望が強くなったこともあって、希望者が少なくなり、中学での進学指導の際に、希望していないのに無理に送り込むという傾向が強くなったので、その頃廃止という方針が出されていた。

 

それまでの商業科には時折問題のある生徒がいたし、教科内容も普通科と違っていたから、担任を希望する者は必ずしも多くなかったが、私はこの学校に勤めて以来10年以上たっていたのに商業科の担任をしたことがなかったし、その商業科が無くなるだろうということなので、担任を希望し、少々曲折があったが、叶えられた。

 

担任をしてみると、これがまたとても明るく性格のいい生徒達の集まりで、クラスの雰囲気は良く、他の教師から今年の商業科はいいと褒められることが多く、希望した甲斐があったと満足したものだ。もちろん問題行動のある生徒もいたが、クラスの雰囲気を乱すようなこともなかった。商業科というのはもともと女生徒のほうが多く、私のクラスも男子は10数名だったが、この男子生徒達が皆性格が良く、女生徒達ともけじめをつけて調和していた。

 

学年が始まった最初ホームルームの時間に、どこのクラスで模する自己紹介をさせたが、女生徒で「私はタイガースが好きです」と言うのが多く、土地柄でプロ野球の阪神タイガースのファンが多いのだろうと思い、ある子が「私はタイガースのトッポが好きです」と言った時には、阪神タイガースのトップバッターは誰だったかなと考えたものだ。後ですぐに分かったのだが、女生徒達が言ったタイガースとは、当時大流行していたグループサウンズの一つで群を抜いた人気があり、デビューから解散までの4年間、ビジネスとして成り立った唯一のグループサウンズとのことだ。そのメンバーの1人に、愛称「トッポ」がいたわけだ。メンバーの中の沢田研二や岸部一徳などは今も活躍している。どうりで女生徒達が騒いでいたはずだ。生徒の中にはメンバーの1人の愛称を取って「サリー」と呼ばれている子もいた。今思えばそんなこともよく知らず、的外れなことを考えた、およそ生徒達とセンスの合わないような担任だったが、生徒達は親しく接してくれた。

 

担任したのは1年生の時だけだったが、卒業後もずっと担任として接してくれ、クラス会の時には呼んでくれた。今も年賀状を交換している者は多い。教育委員会の事務局にいた時、ある年の末に買っていた年賀状が、ちょうどこのクラスの途中で切れてしまい、忙しいこともあってあとは出さなかったことがあったのだが、出さなかった生徒が、年賀状が来ないのは病気でもしているのかと心配して、それを受けた生徒から電話で問い合わせがあった。それからは何を置いても、このクラスの生徒達には出し忘れないようにしている。

バイキングの昼食では、4人ともよく世話をしてくれ3時間ほど楽しく過ごした。賑やかに談笑しているうちに、彼女達は来年60歳になると言うので、改めて驚いた。もう、いわゆるアラカンになっているのだが、とてもそうは見えない若い雰囲気で、45年前のあの子達がこんなになったかと思うと感慨ひとしおのものがあった。皆が還暦を迎える時のクラス会は私が祝ってやろうと約束しているので来年はその年になる。あの頃、タイガース大好き、多分一生好きなどと言っていたあの子達がもう60歳になる。今さら「あの子達」などと言うのもおかしいようなのだが、私にとってはやはり「あの子達」なのだ。その気持ちは45年前からずっと続いている。幸せなことだと思う。