中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

市民に命令する公僕

2012-04-16 11:20:53 | 身辺雑記

 『朝日』に掲載された投稿の一つは大阪府茨木市に住む77歳の男性の「『公僕』概念を欠く橋下訓示」というものだった。去る2日の夕刊によると大阪市の新規採用職員の発令式での市長の訓示は「みなさんは国民に対して命令をする立場。だからしっかりルールを守らないと命令なんか誰も聞いてくれない」というものだったそうだ。

 投書した男性はこれを批判し、「いつから公務員は国民に命令する立場になったのだろうか。戦前の公務員は国民に命令する立場だったろうが、戦後の民主主義下で、公務員は「公衆に奉仕する公僕」になったのではなかったのか」と言っている。そして「大阪市のトップに立つ身として、橋下市長は軽率な発言を厳に慎まれたい。もし普段から思っていたことが無意識に口から出たのであれば何をか言わんやであるが・・・・」と続けている。

 全くそのとおりなのだが、私は、彼にとっては「公僕」ということばなどは死語になっているか、化石化したものだろうということは、何かにつけ居丈高な彼の言動から想像はできる。いや、そのような言葉自体彼の辞書にはないのではないか。職員はすべて己の忠実な部下(ある本では彼にとっては「下僕」と言っていたが)でなくてはならず、そのような部下たちが市民に「命令を下す」ことによって、自分が市民を支配しているつもりではないか。市長と言えども「公僕」であることには間違いない。しかし彼にはおそらくそのような「市民に奉仕する」というような謙虚な気持ちは毛頭あるまいと思う、市民に奉仕するよりも命令することのほうが頭にあるのだろう。市民を見下すのもいい加減にしろと言いたくなる。 

 私が疑問に思うのは、このような市長の逸脱した発言に、事後に忠告するようなよう特別顧問と称する連中や、市の幹部がいなかったのかということだ。皆彼の髭の塵を払っているような存在なのか。それこそ彼の言い分ではないが、何のために彼らの給与のために高い税金を払ったいるのか。

 それともう一つ。『朝日』もだらしがない。「淡々と」記事にするだけでなく、コラムでも何でもいいから、このような市長の問題発言を自ら批判すべきではないか。「こんな批判がありました」というように読者の声を紹介し、それで新聞として批判の後押しをしたつもりでいるのなら、何ともいじましい。

 

(朝の散歩から)

ミモザ(和名:ギンリョウカシア)。マメ科。ミモザはフランス語。

 

 

ベニバナトキワマンサク

 

 ツバキ

 

 私の息子たちの通っていた幼稚園に向かう坂道。散った桜の花びらが積もっている。

 

 

 


赤川次郎氏の橋下市長批判

2012-04-15 10:55:59 | 身辺雑記

  私がとっている新聞は『朝日』だが、最近は橋下氏と彼が率いる「大阪維新の会」に何か媚びるような記事が散見されて疑問に思っていたのだが、4月に入って続けて4本、彼のあり方を批判する読者の声が掲載された。一番新しいのは作家の赤川次郎氏のものだ。赤川氏は「三毛猫ホームズ」シリーズなどで知られた作家で、リベラル思想の持ち主とされているそうだ。

 氏の投稿は「大阪の橋下徹市長は大阪府立和泉高校の管理職をなぜ処分しないのだろう?」で始まっている。教師の口元をチェックしながら、姿勢正しく心をこめて「君が代」を歌えたはずがないと言うのだ。そして「生徒のためのものでlあるはずの卒業式で、管理職が教師の口元を監視する。何と醜悪な光景だろう!」と言っている。大阪市長の橋下氏には府立高校の校長を処分する権限はないが、それにしても市長は「 口元を見るのは当たり前で素晴らしいマネジメント」と校長を称賛しているのだ。私は、橋下氏が民間から登用したこの若い校長は、権力に媚びる卑小な人物だと嫌悪を感じる。

 赤川氏はオペラや演劇鑑賞を行ない論評するなど、芸術評論も物するそうだ。そのためか、このようにも言っている。

 「府知事時代、橋下氏は初めて文楽を見て、こんなもの二度と見たくないと言い放ち、補助金を削減した。曰く「落語は補助金なしでやっている」。舞台に座布団一枚あればいい落語と、装置を組み、大勢の熟練の技を必要とする文楽を一緒く他にする非常識。客の数だけを比べるのはベートーベンとAKBを同列にするのと同じだ。文楽は大阪が世界に誇る日本の文化である。自分の価値観を押し付けるのは『力強い指導力』などとは全く別物である。」

 これを読んで、日ごろ橋下氏を批判している私は、改めて彼がいかに独善的で薄っぺらな人物であるかを再認識した。確かに大阪市の財政は苦しい。無駄なものは整理していくことは必要だ。しかし彼は自分が理解しないか、興味のない文化的なもには無関心なのではないか。彼が指揮するプロェクトチームが取りまとめた「市政改革プラン(案)」では、文楽や、伝統と実績のある大阪フィルハーモニー交響楽団などへの補助金を削減することにしている。

 赤川氏は投稿の最後にこう言っている。 

 「過去に学ぶ謙虚さを持ち合わせない人間に未来を託するのは、地図もガイドもなく初めての山に登るのと同じ。一つ違うのは、遭難するとき、他のすべての人々をみちづれにするということである。」 

 大阪人は一時の熱狂だけでなく、心底橋下氏に未来を託そうとしているのか。大阪人以外でも彼に「何かやってくれるのでないか」と「期待」している国民も同じだ。その期待の行きつく先はあまりにも危うい。将来に悔いを残さないためにも、彼の言動を冷静に見るべきだと思う。大阪が彼の言いなりになるのはあえて言うなら知ったことではないが、橋下氏や彼が率いる「大阪維新の会」が国政を窺うということを聞くと、落ち着いた気持ちではおられない。

 

(朝の散歩から)

ボケ(木瓜)。中国原産のバラ科の植物。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


花のみち

2012-04-14 09:22:22 | 海外あれこれ

 わが町の名所に「花のみち」がある。その道をたどっていくと有名な歌劇場に行く。普段も道の両脇の花壇などが整備されているが、今は桜の盛りで、通勤者やこの辺りにある私大付属の小学校の生徒達が通っている。

 入口

 

 

  

 この道は、土手のようになっているが、今は少し離れた所を流れている武庫川という比較的大きな川の、昔は土手だったのだそうだ。向って右が「花のみち」、左側がいにしえの川原だったところ。

 

  

 

 

 

 

 道の両側の花壇には、市民の有志も加わって、さまざまな花が植えられている。

 

 

  

 市花スミレ

 

 私の好きなワスレナグサ(勿忘草)

 

 


妻の誕生日

2012-04-13 11:05:03 | 身辺雑記

 13日は妻の誕生日。生きていれば77歳、喜寿を迎えたことになる。

 いったいどんなお婆さんになっているのだろうと思う。妻の顔や様子の記憶は13年前に停まったままになっているから、想像がつかない。人に話すと、可愛らしい人だったからきっと変わってないよなどと言ってくれるが、それでもやはり年並みの様子にはなっているだろう。可愛らしいお婆さんになっていてほしい。金婚式も済ませている。元気でいてくれればいいがひょっとして認知症にでもなって、私が介護していることもあるかも知れないとつまらないことを考えたりする。

 知り合ってから毎年誕生日のプレゼントは欠かしたことはないが、いなくなると、その楽しみもなくなった。何かにつけ独りということは侘しいものだ。 

 今日は前に撮った、妻が好きだった花の写真を引っ張り出して贈ろう。 

 ロウバイ

  

 モッコウバラ

 妻とモッコウバラ

 

(朝の散歩から)

桜満開 

 

 

 

 

 

 

  


君が代斉唱(2)

2012-04-12 09:31:43 | 身辺雑記

 「君が代」については、人さまざまな思いがあるのではないか。私も含めた、それ以上の年齢の人たちには、「君が代」を聞くと戦争中に理不尽な思いをした人にはどうにも不快感を感じるだろうし、反対に昔教えられたように反射的に威儀を正す人もいるだろう。

 若い世代でも「君が代」に対する考えはいろいろなようだが、私たちのような時代の者と違って、国歌として強制されたことがないから、「大相撲の初めに歌う歌」と思っていた者もいたと聞いたことがある。今では「オリンピックの時の」だろうか。同じように「日の丸」にしても「サッカーの試合の時に振る旗」くらいに思っている者もいるらしい。

 歌詞の意味は小さい子どもには当時でも難しかった。それに曲を付けると「さざれ石の巌となりて」のところが「さざれ」と「石」の間が切れて息を継ぐから、なお意味が分かりにくかった。「千代に八千代にさざれ」とは何のことだろうと思ったものだ。曲としてもあまりできが良くないのではないかと思う。

 あの歴然とした右翼政治家の石原東京都知事でも、今はどうかは知らないが、かつて(1999年)は「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか」と答えているようだ。私は歌詞もそうだが曲全体が、荘厳でよいと言う人もあるだろうが重苦しくて嫌いだ。オリンピックで優勝者を祝福する時に演奏されても心が浮き立たない。

 「君が代」は法律では定められなかったが、1880年(明治13)に国歌として採用された。テーマは皇統の永続性を望むものであり、歌詞は「古今和歌集」に収録されたものだ。この「君」が天皇を指すことには戦前には何の疑問もはさまれなかった。私たち小学生でも「天皇の御代が永く栄えますように」という意味だと信じていた。国旗国歌法が制定された1999年には「我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当」とし、「君」とは「日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当である。」とし、「代」は「本来、時間的概念だが、転じて「国」を表す意味もある。「君が代」は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴する我が国のこととなる」。また君が代の歌詞を「我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当」とした。何やかやと解釈するものだが、やはり「君」は天皇を指していることには違いがない。

 卒業式で「君が代」斉唱の時に立たなかったり、歌わなかったりするのはけしからんと言う若いお父さんやお母さんは、どれだけ「君が代」が歌われた過去の歴史やその歌詞の意味を知り、「君が代」に対して様々な体験や思いを持っている人があることを知ったうえで子どもに教え、伝えているのだろうか。

 大阪のある中学校では不起立教員を保護者が学校に通報し、学校名が報じられると「こんな教員の存在は許せない」という電話が殺到したそうだ。ある府議はツイッターで「取材では先生の口元を撮って」とメディアに情報提供を呼びかけたという。こんな大阪の状況は、これが正常だと言う人だいるかも知れないが、やはり非常に異常だと思う。ただでさえモンスター・ペアレントが多いと言われる大阪市だ。これからも折に触れて「教師狩り」が行われるのではないか。そんなことで大阪の教育の質が上がるのだろうか。

 

(朝の散歩から)

椿(2)

 

 

 

 

 


君が代斉唱(1)

2012-04-11 08:01:57 | 身辺雑記

 とりわけ大阪市で大きな話題になったことだが、市の新採用の職員の発令式に君が代を斉唱させ、訓示の最後には「国歌・君が代斉唱のとき、きちんと手は横、気をつけ。国際社会で外国に行った時に、前に(手を)組んでいたら格好悪い話なんですね」と言ったそうだ。市長支持者はこのような訓示を当然だ受け止めるだろうが、私には「そこまで言うのか」という気がした。

 こういうことだから、市民なども卒業式の時に起立しなかったり、歌わなかった教師を処分することも当然と受け止められ、そのような教師を「バカ者」と罵り、「非国民」と言わんばかりの声も多い。そこでは「思想信条の自由」などは消し飛んでしまっている。そんなものは個人の主義主張を顕示する、人から飛び離れた。程度のものとしか考えられていないのだろう。だから市長も「国旗、国歌が嫌なら、日本の公務員を辞めろって言うんだ。君が代を起立して歌わない自由はある。それは公務員以外の国民だ」などという暴言を吐くのだ。

 いったい日本の国以外で儀式のときに国歌を斉唱させたりする国はどれくらいあるのだろうか。Everyone says I love you !というブログがあって、なかなか鋭い論調を展開しているが、その中で、このことが触れられているので引用する。

 「たとえば、アメリカという国はヨーロッパからの移民が原住民を追い立てて人工的に作った国ですから、それだけに、国旗や国歌という国家統合の象徴を重んじられています。 しかし、それ以上に表現の自由が保障されているのです。 

   アメリカでは、ベトナム反戦運動で多くの国旗が燃やされたことに対する批判から1968年連邦法をはじめ48州で国旗を保護する法律が制定されました。 

 しかし1989年、 米連邦最高裁は、「国旗を燃やす行為は言論の自由の権利の一部」とする判断を示し、国旗を保護する国と州の法律は表現の自由と思想良心の自由を侵害するものとして、すべて無効とされています。 

 国のやりかたに反対する表現行為として、起立しないどころか、国旗を燃やす行為でさえ、罰せられないのがアメリカです。

 また、ヨーロッパでも、学校での国旗掲揚や国歌斉唱をすることが、そもそも殆どないのだそうです(内閣総理大臣官房審議室、および外務大臣官房儀典官室による資料 「諸外国における国旗国歌について」)。

イギリス: 普通の歴史と音楽の授業で取扱い、学校行事では掲揚せず歌わない。
オランダ: 特に教育する事はない。学校行事で掲揚や歌唱という事も特にない。
ベルギー: 国旗掲揚の義務はなく慣例もまちまち。国歌は教育されていない。
スペイン: 学校での規定はない。

ギリシャ:学校での規定はない
イタリア:教科書には書かれず、それによる儀式は行われない。
スイス: 学校内で実際に国歌を歌う事は殆ど無い。
ドイツ: 各州の権限で決められる。
オーストリア:国旗は学校で特に扱われない。

デンマーク: 特別の教育はしない。普通の授業で言及。国歌は行事で殆ど歌わない。
ノールウエー:特別な教育はしていない。両親が教えて子供はすでに歌っている。
スウエーデン:教科書に無い。国旗は教師に一任。国歌は学校で特別に教えない。

 他方、中国の学校では月曜朝の斉唱が義務付けられており、また「国旗法」により、全日制学校での国旗掲揚が義務付けられています。これを尊重しなかった場合には「国旗侮辱罪」の規定があります。

 橋下市長は2012年3月20日、関西ローカルの情報番組に出演した際に、高校の卒業式でマスクをつけた教員らがいたとして 「国際社会において非礼」 とも批判しています。

 橋下氏が強調する「国際社会」って、ひょっとして、国旗国歌に最敬礼することが強制される北朝鮮や中国など全体主義の国のことなんですか」

  日本と外国とは違う。日本は特別な国なのだとういうのなら敢えて何も言うまい。戦前、戦中の日本がそういう考え方の国だった。私は、やはり一連の橋下市長の言動はあの時代に回帰するような異様なものに思われる。彼の考えの根底にはおそらく全体主義があり、それが折々顔を出すのではないかと思っている。

 

 (朝の散歩から)

 椿

 

 

 

 

  

 出勤途中らしい若い女性が、緩やかな坂道を小走りに降りてくる、右手には携帯を持って、それを見ながら行く。多分携帯依存症なのだろうが、転ばないかとはらはらした。携帯というものはそれほど心を惹きつけられるものなのか。

 

 


痒い所へ手が届く

2012-04-10 09:22:17 | 身辺雑記

 「こまかな点まで行き届く」の謂で、実際、痒いことは体のどこにでもあって、反射的にそこへ手をやって掻くが、それが背中の真ん中くらいだと手が届かずいらいらする。妻がいた頃にはシャツの下に手を入れて掻いてもらった。実際に痒いところはほんの点くらいなのだが、そこに指の爪先が当たると「あ、そこ、そこ」などと言う、何とも言えない気持ちの良いもので、まさにこまかな点まで行き届くと言う感じのものだった。

 独りではそういうわけにいかない。シャツを動かしてゴシゴシしたりするのだが、どうもぴったりせず物足りない。そこで百均ショップで「孫の手」を買うことになる。竹で作ったものだが、シャツの下や首のところから突っ込んで掻く。手で掻いてもらった方が、「そこだ」というポイントに当たって気持ちがよいのだが、それでもかなりいいものだ。考えだした人は偉いと思うが、おそらくは中国辺りで発生したものだろう。欧米にも昔からあるようで、象牙や銀で作ったものもあるそうだ。英語ではBackscratcherと言うが、日本語由来のmagonoteという言葉もあるそうだ。

 「孫の手」という言葉は「麻姑(まこ)の手」が転訛したもので。麻姑は中国の西晋時代の書である『神仙伝』に出てくる仙女で、爪を長く鳥の爪のように伸ばしていた。あるとき後漢の蔡経が、その長い爪で自分の痒いところを掻いてもらうと気持ちがいいだろうと言ったことに因むと言う。爪を長く伸ばした仙女などと言うと何となく薄気味悪いが、それでもその爪で掻いてもらったら気持ちは良いだろう。「麻姑の手」はともかく、「孫の手」と言うと幼い孫が祖父母の背中を掻いてやり、老人が気持ちよさそうに目をつぶっている情景が想像されてほほえましい。 前に中国のある町に行ったときに、観光バスの周囲に土産物売りが群がり、つまらないものを売りつけようとする。その中に「孫の手」を抱えているのがいて「十本千円」と呼ばわっていた。中国独特のものでもないし、十本も買ってどうするのかと思ったが、さすがに買う者はいなかった。

  猫も痒さを感じるのだろう、時々せわしなく手足を動かして掻いているが、目をつぶって気持ちよさそうだ。痒みは痛みと違って掻くと気持ちがいいが、痛みは触るとかえって痛い。痛みは体の中にもあり、私には経験はないが、かなり苦しいこともあるらしい。痒みは体内では感じない。

 

 (朝の散歩から)

 モクレンにはハクモクレン(白木蓮)とシモクレン(紫木蓮)とがあるが、このあたりではハクモクレンは終りに近く、シモクレンはこれからだというのが多いようだ。モクレン葉語化でき品もあってなかなか良い。シモクレンんのいろいろな姿を見た。

蕾。毛のシャツを着ているようだ。

シャツを脱ぎ棄てて

 

 

 


逆鱗

2012-04-09 10:20:32 | 身辺雑記

 大阪市営の地下鉄で朝、54歳の男性助役が駅長室内でたばこを吸ったため、火災警報機が作動して上下線4本に最大1分の遅れが生じた。市営地下鉄では2月にもたばこの火の不始末とみられる火災で梅田駅の倉庫が全焼し、交通局は各駅に全面喫煙禁止の徹底を通知したばかりで、この助役はそれを無視したことになる。 

 54歳という年齢と、助役という役職を考えると、どうにも愚かで軽率な行為だと思う。橋下市長は市職員やその組合を「敵」のようにして攻撃し、市民の支持も得ているようだから、そのような規律違反行為をするのは、市長の姿勢に火に油を注ぐようなもので本当に愚劣だと思う。

 インタネットなどで見るともちろん市長は「激怒」し、「君が代条例で、起立をしない職員とある意味同様に扱う。今までの事例やバランスを考えずに厳罰でいく」として、「懲戒免職も辞さない」考えらしい。市長は「裁判も辞さない。免職は法的に問題があるかもしれないが、司法決着をすればよい」と語ったという。

 「激怒」とか「号泣」というのはやや安っぽいマスコミの常套語だが、ツイッターなどで見るこの市長は相当感情が抑制できにくい性格らしいから、助役に対して「激怒」したのは分かるような気がする。しかし懲戒ということ、まして懲戒免職となると、その者の生活のたずきを奪ってしまうことになるのだから、慎重でなければならない。懲戒に当たってはしかるべき機関が慎重に審議するべきで、市長が「今までの事例やバランスを考えずに厳罰でいく」と怒りにまかせて口にすべきことではないだろう。そこにこの市長の「民意」を得たのだから何でもできるという驕りがあるように感じる。

 中国の伝説上の神獣である龍には81枚の鱗があり、その顎の下に1枚だけ逆さに生えている鱗があって、これを「逆鱗」(げきりん)と言う。龍はこの喉元の「逆鱗」に触れられることを非常に嫌い、これに触られた場合には激高し、触れた者を即座に殺すとされている。ここから「逆鱗」は触れてはならないものを表現する言葉となり、帝王(主君)の激怒を呼ぶような行為を指して、「逆鱗にふれる」と比喩表現されるようになった。今では、「逆鱗に触れる」として広く目上の人物の激怒を買う行為を指すようになり、また「逆鱗」が目上の人物の怒りそのものを指す言葉として用いられることもある。

  この助役はまさに橋下市長の逆鱗に触れたのであり、これまでの言動を考えると、この市長には逆鱗が1枚どころか何枚もあるのではないか。この橋下市長、市長選で100%の市民が信任を与えたかのように怖いもの知らずで、選挙で選ばれた市民の代表と言うよりも、気分は帝王だという感じがする。これからもタツノオトシゴが成り上がったようなこの龍王の逆鱗に触れる者は出てくるだろう。阿諛追従の徒に囲まれた権力者の行為は止めどもなく広がっていく怖いものだと思う。

 

(朝の散歩から)

 やっと桜が咲いた。新学年の季節。新1年生も交えた小学生の集団登校の列が朝の光を浴びて清々しく可愛い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


大動脈瘤破裂

2012-04-08 08:57:37 | 身辺雑記

  先月、従姉のM子が急死した。胸部大動脈瘤破裂だったという。M子は私の母の双子の姉の子で、私より生まれ月が少し早い同い年だった。一昨年心臓の具合が悪いと彼女の娘から聞いたので電話したが、まったく元気のない声で、長くは話さなかった。その頃から異常があったのだろうか。

   血液を送る大動脈は、横隔膜から上を胸部大動脈、下を腹部大動脈と言う。その大動脈に嚢状や紡錘状の瘤ができることがあり、それが破裂するとしばしば致命的になるようだ。M子の状態がどのようなものだったかは知らないが、おそらくは大量の血液が胸腔内に流出して手の施しようがなかったのだろう。

        

   この歳になると何が原因で死ぬかは知る由もないが、おそらくはそれほど遠くない時期に、私もその時を迎えるだろう。欲を言えば、独り住まいだから突然死はない方がいいが、それよりも認知症になるのだけは嫌だ。


政治塾

2012-04-07 09:25:56 | 身辺雑記

 西安からの友人の家族を迎えて神戸や大阪を案内した最終日の夜、ホテルの部屋でテレビを観ていると、かねてからマスコミが話題にしていた、橋下大阪市長の率いる「大阪維新の会」の政治塾が開講したというニュースをやっていた。

 参加者は全国から2千人以上あったと言う。テレビでは何人かの参加者が高潮したような様子で感想を述べていたが、中にはある高齢の男性が「老いの胸に火がともされた」と興奮したように語っていた。

 この政治塾は国政進出に向けた候補者の養成が狙いらしく、この後は講義とリポートによる2次選考を経て、約半数が6月から正式な塾生として衆院選候補者の予備軍になると言う。候補者の街頭演説の練習もするらしい。橋下氏によると200~300人の候補者を擁立する考えのようだが、受講者には地方議員などの政治経験者は少ないようだ。しかし参加者すべてが国会議員を目指しているわけではないようで、新聞記事によると川崎市からのある40代の男性は「維新の会が我々をふるいにかけるように、私も維新を選ぶ立場、無理して入れてくれとお願いするつもりはない」と言い、東京都の30代の男性は「政治的な興味はない。お祭り騒ぎに参加する感覚だ」と話したそうだ。「お祭り騒ぎ」に参加するだけで参加費(3万円とか)や交通費を払うのにはちょっと驚くが、人さまざまなのだろう。

 私はこのような方法で国会議員候補者を選ぶことには疑問を持つ。前にも書いたが、座学だけで実際の政治の場に立てる者ができるのか。何か促成栽培の野菜のような感じがしてならない。小泉劇場で興奮した有権者は多数の「小泉チルドレン」を産みだした。中には政治家としてよりも人間としての資質を疑うような者もいたが、そのチルドレンたちも今はほとんど残っていない。議員歳費だけを考えても全くの無駄遣いだった。それに比べると「政治塾」を開いて候補者を選ぶだけまだましなのかも知れないが、政治塾の先輩である「松下政経塾」出身者は与党の民主党にも、野党の自民党にもいて互いにやり合い、何が何やら分からない状態だ。

 だいたい国会議員などを簡単に養成できると考える方がおかしい。聞いた話では、英国では国会議員になるのは大変なことで、何年にもわたって選挙区で有権者を訪問したりするなどの地道な活動をした挙句に政治家の候補として認められるのだそうだ。英国と日本では政治の仕組みや制度が違うだろうが、国会議員になるためには本来英国のような地に足が着いた地味な活動が課せられることはあるべきことだろう。

 ある知人から聞いたことだが、前にある民放の朝の番組で、大阪維新の会から当選した若い女性議員(府会議員か市会議員か知らないが)が招ねかれて出演したのだそうだが、この議員がまったくひどいもので、ほとんど何も答えられなかったらしく、小泉チルドレンの中でも特にオバカ議員として名を売ったある若手議員よりもひどかったと知人は言っていた。その人物の候補者としての資質よりも、「維新の会」という所属団体の名だけで選ぶからこういうことになるのだ。有権者の資質も問われることだ。

 今かなり橋下人気を煽り、浮足立っているマスコミの冷静な対応を期待したい。あの小泉劇場騒動をまた繰り返すようなことはしてほしくないが、今のマスコミにそれを期待するのは無理というものか。

 

(朝の散歩から)

アセビ

サンシュユ

ボケ

レンギョウ