中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

沈丁花

2012-04-06 08:15:36 | 身辺雑記

 まだ寒い時の花で好きなのは蝋梅と沈丁花。蝋梅はどちらかというと冬の花だが、沈丁花は早春の花だ。薄暗い道を歩いているとほのかに良い香りがする。見ると沈丁花の白い花を夜の闇の中に浮かんでいる。その風情が好きだ。

 今年は寒い日が続いたせいか沈丁花の咲くのも少し遅かったが、先月末ごろからようやく辺りに香りを漂わせるようになった。今年は咲くのが楽しみで、蕾の頃から開く様子を追った。

1月10日

 

 1月10日

 

2月26日

  

3月7日

 

3月14日

  

3月19日

 

3月28日

  

3月28日

   

3月28日

   

 沈丁花は室町時代から栽培されていたそうで、雌雄異株。雌株はほとんどなく挿し木で増やす。名前は香木の沈香のような良い匂いがあり、丁子(ちょうじ、クローブ)のような花をつけることからつけられた。

 写真の品種はフクリンジンチョウゲで、葉の縁に斑がある。

  


朝の散歩

2012-04-05 08:52:22 | 身辺雑記

 西安から訪れた謝俊麗が帰国してからチャットで「空港で爺爺イエイエが杖をついているのを見て悲しくなった。朝散歩でもしたらどう」と言ってきた、これまでにも言われたり、自分でもそうしなければと思いながらぐずぐずしていた。そうこうしているうちに足腰はますます弱くなり、俊麗の言葉で決心して、朝起き抜けに歩くことにした。歩くと言ってもブログ友の毎日1万歩のSさんや、地球一周の距離を目指すOjさんのようなわけにはいかないから、最初は30分程度にした、慣れてきたら追々距離を延ばすことにしている。

 歩いてみると朝の空気はやはり気持ちがよいし、朝の光を15分浴びると体にいいのだそうだ。道すがら春の花を見られるのもよい。俊麗の息子の撓撓(ナオナオ)や、李真の息子の宸宸(チェンチェン)の小さな手とつないでいることを想像して歩いたり、結構楽しいものだ。

 行きかう人たちは会社や学校に向かうのだろう、皆速足で中には小走りもある。見知らぬ顔ばかりだが、ああ、ああいう時があったなあと、何か懐かしくなり、のろのろと歩いている我が身を振り返るとそんな姿がまぶしくも見える。

桃 

  

雪柳

 

ハクモクレン

 

   

 家に帰って茶を淹れて飲むと、気分が爽やかになって、とても気分がよい。とりわけ謝俊麗の夫君の劉君が推薦して贈ってくれた「竹葉青」という、中国四川省にある中国三代霊山のひとつ、峨眉山が産地の銘茶は何とも言えないほど清々しい。大した早起きではないが、やはり「三文の得」という感じもする。、

 今更という感無きにしも非ずだが、ゆっくり続けていこう。欲を言えば、妻と一緒だったらと思う。


宋潔の娘

2012-04-04 09:05:37 | 中国のこと

 私が入会している関西日中交流懇談会という、中国の農村部の子どもたちに学費を援助している団体は、援助地区を訪れて子どもや親、教師に会う。その折に援助を受けている子どもと面談して家庭の事情や本人の希望する進路などについて聴き取りをする。そのためには通訳が必要で、こちらで手配したり現地の有志に援助してもらったりする。 

 宋潔(ソン・ジイ)は何年か前に私たちが中国北西部の寧夏回族自治区の南にある固原を訪れ私が面談を担当した時に通訳してくれた。彼女は寧夏の区都の銀川にある対外友好協会の職員で、寧夏人ではなかったが、少数民族の土家(トゥチャ)族の娘で、日本語は堪能だし献身的な優しい性格だった。漢族の男性と結婚して幸せそうだとは聞いてはいたが、最近は音信も少なくなっていた。先日久しぶりにメールがあった。それによると昨年8月に娘が誕生したようで、可愛い写真が添付されていた。

  100日

  3月18日 

 ぽっちゃりした可愛い子で、名前は王泓又(ワン・ホンヨウ)。よく食べて、よく寝るそうで、ニックネームを「麦蔸(マイトウ)」と言い、これは香港のアニメに出てくるピンクの子豚の「麦兜」と同じ発音だそうだ。いかにも子豚ちゃんという感じの可愛い子だ。元気に幸せに育つようにと願っている。


匿名性(2)

2012-04-03 07:58:58 | 身辺雑記

 私のブログへのコメントは少ないが、それでもコメントを交わしているブログ友で知っている60代以上の人たちは、男女ともにさすがにわきまえのあるコメントをくれる。だから、直接会っていろいろ話ができたら楽しいだろうと思う人は多い.

 それに反して、この人はいったい何歳くらいなのだろうと疑問に思う例も少なくない。私のブログは私の管理責任の下にあるが、それはオープンなもので誰がコメントしようと自由だ。私のハンドル名は「中国迷爺爺」でいわば匿名だが、しかしある程度の自己紹介はしているし、私のURLを見たり、これまでの私のブログを読んだら、その匿名性はほとんどないのも同然だ。しかし私のブログを訪問しコメントする人は当然匿名だ。誰であれ自由に訪問し意見を述べる。それが面白い。だから私のブログは門も塀もない庭のようなもので、そこに入ってきて私にどんな意見を言おうと、入って来た者同士が意見を闘わせようとまったく自由で、むしろそれを読んでいると楽しいこともある。 

 だが、ここで年寄らしい狷介さを露呈するようだが、自由に入ってくるにしても、いわば「主人」である私には一定のわきまえとけじめを持って接してほしい。もちろん私はコメントを入れる時にはそのように心がけている。先ほど「この人はいったい何歳くらいなのだろうと疑問に思う例も少なくない」と書いたが、ちょっと見には20代か30代のように思えるし、内容を見ると4,50代にも思える、内容としては特に問題はないのだが、全体としての物言いがどこか杜撰で、ときには感じが悪い。概して「上からの目線」が少なくない。私がこれまで一番不快だったのは次のようなものだった。                                                                                                                               

  私が前からのブログ友のSさんとコメントの遣り取りをしていると、初めての訪問者がコメントを入れてきた。要するに教職員の卒業式の国旗に対する態度の問題だった。それに対して私としては珍しいことなのだが少し気が立って、「私は以前からのブログ友のSさんの質問にお答えしました。それを横からまったく知らないあなたが、「だらだら法律がどうのと言う以前の」とか、詰問調で「「答えて下さい!!」と言われると、やはり不快感が先立って、答える気が起こりません。何よりも私のSさんに対する答えに対して、あなたが何を言われているのか、筋道だって理解できません。おそらく無理にお答えしても納得されないでしょう。悪しからず」と返した。 

 これに対してまた不快感を示すコメントが来たが、私はもう取り合わないことにした。それに対して別の訪問者が彼(おそらく)を励ますようなコメントをしたが、それに対して「影(蔭)でこそこそやるような元教師のブログにはあえて投稿しても意味がありません。時間の無駄ですので失礼します」というコメントを残して去って行った。直接私には何のコメントもなかった。捨て台詞と言うのか、品は悪いがイタチの最後っ屁と言うのか、どうにも感じが悪かった。ブログでどうやって「陰でこそこそ」やれるのか、それにわざわざ「元教師」というところに非常な侮蔑心を感じたものだ。その訪問者の名(おそらくブログ用のハンドル名でなくコメント用に適当に名乗ったのだろう)が「基本的人間のマナーの人」とあるのには、ブラックユーモアではないかと思ったものだ。

 匿名というものはあまり濫用するものではないし、たとえ必要な場合に匿名を使っても一定のマナーやけじめが必要だ。ある新聞の川柳欄に「匿名でなければクレームきっと減る」というのがあったが、そうだろうと思った。

 

 

 

 

 


匿名性

2012-04-02 09:03:08 | 身辺雑記

 長男の家族と食事した時に、長男がこんな話をした。 

 パソコンをいじっているうちに、予期しないサイトに入った。そこはかなり知られたチャンネルの掲示板で、その書き込みを見ていると「死ね!」などのあまりの言葉遣いの悪さにげっそりしてしまったらしい。どうしてあのようなえげつない言葉遣いになるのか、短い言葉で、よくあれだけの性格が悪く口汚いことが言えるものだと心底苦々しそうに言い、もう二度とあそこは覗かないとも言った。私も福島の被災者にひどい言葉をあびせかけていた書き込みを読んだことがあるからそれを話し、しばらくそのことで遣り取りをしたが、息子は「結局匿名性に問題があるのだろうな」と言った、匿名だと何でも言えるという気持ちになってしまうのだろうし、またそのチャンネルではそのような言葉遣いをしないとならないという気持ちになるのではないかとも息子は言った。 

 匿名での言動は何も悪いことばかりではない。世間では匿名で恵まれない人たちのために多額の寄付をする人があるし、そこまで行かなくても街頭募金に応じるのももちろん匿名行為だ。新聞の読者の声の欄などへの投書も原則は匿名だが、時折本人の希望もあり、担当者が誹謗中傷の類ではなく、妥当と判断したものは「匿名希望」として掲載される。だから匿名ということは本来何も悪いことではない。 

 しかし世間には匿名であることをいいことにして、反社会的な、あるいは常識を逸した言を弄する者がいる。先にあげたチャンネルでの書き込みなどはその例だが、他にも何かあると市役所などの公的機関にクレームをつける人間などもその例だろう。市長の発言や職員の応対が気に入らなかったとかいうと、すぐに市役所などに電話やメールでクレームが入る。被災地の木の薪で大文字の送り火をしようとした時のかなりの数の京都市民の反応などもそうだろう。おそらくはほとんどすべてが匿名だ、中には口汚くののしるというのもある。相手に顔を見られない匿名ということで、傲慢さが現れてしまうのではないか。 

 車に乗ると人が変わるということを時折聞く。車に乗るとおっとりした人間でも荒々しくなるのか、本来の性格が車という自分の占有空間の中で露呈してしまうのかは分からないが、このようなことはブログでも感じる。 (続く)