6月号のふるさとの話

2017年05月04日 | ふるさと




 楽(たの)しみは   6月の話  ネタ探し   河内介(かわちのすけ)の  記録読むとき



クイズの解答を持ってこられた、Iさんちの奥さんが言います。
「クイズも、ようこんな難しいもん考えて作られますね」、

「それこそ、それこそ。ヒントの “生田通りの〇〇館” て、
有楽館のつもりだったの。違うよ、生田通りにあったのは大勝館だったわよ」とおっしゃいますね。

『奥さんはよう知っておられますね』。
「私は、生まれがその近くだったもの、よう知ってるよ」、

『申し訳ない。クイズを考えた私のうっかり間違いです。有楽館は大開通りでした。
一昨日に、ちゃんと近くのKさんからも “ヒント違ってますよ~。豊劇は元町、生田通りは大勝館、そして答えがユウラク(有楽)ならば大開通りでしょ” 」と、コメントが来てましたと話します。

中々、地元のネタを書く場合でも、
よく調べているつもりが、うっかりミスもありますね。

Iさんちの奥さんは、続けて「アトムさんが考えるのですか。ふるさとの話ってよう調べて書いてあるね」と、
感心していると褒めてくれました。

ふるさとの話って、地元の方でも「そう言えばそうだったの」と思えるくらいの話でないといけません。
地元の人が、10人中7人も8人も知っているような話しでは面白くありません。「へ~~、そうだったの知らんかったわ~」と思ってもらえるくらいの話がよろしいのです。

6月号のふるさとの話を、どうしようかと考えますね。
大体一ヶ月前には考えなければ間に合いません。

いろいろ考えました。
文久2年5月1日は、新暦に直しますと1862年5月29日です。

『そうだ、6月に近い』ということで、
田中河内介(たなか かわちのすけ)親子の遺体が小豆島に打ち上げられた。文久2年5月1日の話にすることにいたします。

ネタ元の、田中河内介の歴史資料を読み込むことにいたします。
豊岡市香住にある石碑の文章も読み込むことにいたします。

今日は、店番をしながら「ふるさとの話6月号」のネタの資料の読み込みいたします。

国府コミュニティセンター

2017年05月03日 | ふるさと




 楽(たの)しみは   コミュニティセンター  ハイカラに  名前も変わって  春が来るとき



4月1日からです。
国府地区公民館から、国府地区コミュニティセンターに名称が変わりました。

ちょっと長い読み名ですから、
略称は「コミュニティこくふ」と呼びます。

豊岡市全域で同じようにコミュニティセンターに衣替えして、
名前も仕組みも一新します。

なにやら、
名前がハイカラになって、玄関先の花も晴れやか春迎えます。

朝早き、どちらも稀な仕事です

2017年04月28日 | ふるさと




 楽(たの)しみは   樋門操作で  立つ朝に  遡上する鮎(アユ)  調べみるとき



珍しい仕事、珍しいご用ってものは、
幾万も幾百万もあります。

毎日欠かさず一年365日、
午前6時きっかりに、しなければならないご用があります。

同じ時間に同じ方法で水量を測定し、
記録に残さなければなりません。

農業用水を取り込む水路を、蓼川水路と言います。
円山川本流を堰き止めて、樋門から水路に引き込みます。

円山川を流れる水は、大事な大事な国のものです。
その水を取り込むわけですから、きちんとした約束事に従って取水しなければなりません。

樋門を上げ下げして、規定の水量を取り入れるのです。
通常は30センチの防火用水なのですが、田植えが始まる時期になりますと、樋門を揚げて水位75センチを基準に取り込みます。

今朝は75センチにする日です。
樋門のハンドルをクルクル回します。道路を横切り、区内の水路に下りて水深を測ります。

『ありゃ、60センチしかないわ』トコトコトコと堤防を上がって道路を渡り、樋門のハンドルをもう少し揚げます。
もう一度水路の測定場所に戻って、また水深測る『今度は80センチにもなったがな、なかなか難しいな』、

またまた、トコトコトコと堤防上がって樋門のハンドル回し、
測定場所との間を何往復も致します。

75センチピッタリでないとダメなのです。
朝の6時に毎日です。水深を測り、流速を測り、時刻も天候も記して記録です。

なんとも不思議な、珍しいご用なのです。

樋門操作の場所から、大きな井堰が朝もやの中に見えます。
本日は時刻を同じに、男性4,5人が歩いて所定の位置に立ちました。

立って、水の流れをじっと見つめているのです。
後で聞きました。この時期に、鮎(アユ)が堰の魚道を遡上していく匹数を調べているそうなのです。

朝の早くから昼までかな、一日中でしょうか、
じっと水の中を目を凝らして、アユが魚道を上(のぼ)っていく数をカウントしているそうです。

なんとも不思議な、珍しい仕事があるものですね。

早朝6時、
樋門のハンドルを回しながら、井堰の上のじっと目を凝らす男5人を眺めます。

65年前の主権回復の日

2017年04月27日 | ふるさと




 嬉(うれ)しさは   62年前の  蜘蛛の糸  いまだ分からず  歳を取るとき



いまだにどうしてなのか分かりません。
小学校5年生になった4月27日のことです。

すごく真面目なH先生の授業のことです。
5年生になったばかりの子供たちに、3年前のサンフランシスコ講和条約の話をします。

そして、そのあと芥川龍之介の児童向け小説「蜘蛛の糸」の話です。

一年前のブログに書いていました。


【府中小学校1年生の担任は、 二十四の瞳の大石先生を彷彿させる、優しいU先生でした。
受け持った私たちへ「(大きくなったら)なりたいもの」というテーマの研究授業があった時、
一生懸命に書いた作文が、この「つばめになったら」の一編なのです。

U先生は、文集「ひよこ」として退職後もずっと大事に保存されてたそうです。
6年ほど前にコピーを届けてもらったものです。
日記の日付は1月18日です。
今から64年前の、昭和27年1月18日なのです。

一年前の昭和26年4月16日には、
マッカーサーは、日本占領統治の最高責任者としての任を解かれて、アメリカに帰国します。
そして、9月8日にサンフランシスコ講和条約が署名され、翌年の昭和27年4月28日に発効します。

7年弱の連合国占領の時代を終えて、
日本の主権は回復します。
日本に再び国としての始まりがスタートした日なのです。

そんな春の日を迎える新春一月に、
U先生の担任する一年生のみんなは、一生懸命に作文を書きました。

私の5年生の担任は、男性教諭のH先生でした。
主権が回復して3年目の昭和30年4月26日です。

H先生は凄く真面目な青年教師でした。
5年生になったばかりの子供たちに、サンフランシスコ講和条約の話をします。

そして、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の話を聞かせるのです。
4月27日のその日にですよ。

地獄に垂れ下がったクモの糸にぶら下がったカンダタは、自分だけが助かりたいために、下から上がってくる罪人どもに「下りろ下りろ」と叫んで、
何ともなかったクモの糸がプツンと切れてしまって、再び地獄に落ちてしまうお話です。

H先生はその話をした後に「みんなは、もしもお釈迦さまがクモの糸をさしのべて下さったらどうする」と言って作文を書かせてのです。
なぜなのか分かりませんが、4月27日に書かせたのです。

今日は4月28日です。
64年前に日本に主権が還った。日本の始まりの日なのです。】


「みんなは、もしもお釈迦さまがクモの糸をさしのべて下さったらどうする」と言って作文を書かされました。

うっすらと思い出します。
お父さん、お母さんに連れて行ってもらった、長楽寺の仏様に会いに行くとか何とかいう作文を書いたことを思い出します。

H先生は、どうして5年生になったばかりの子供に、
こんな難しいテーマの、講和条約だの蜘蛛の糸だのを、この日を狙って話されたことなのか、いまだもって分かりません。

ただその時、
H先生の生き生きとした顔、希望に満ちた話しぶりだったことを記憶しています。

明日28日は、サンフランシスコ講和条約発効65年目です。
日本が真に独立して、主権を回復した日です。

なぜかふっと62年も前の、
H先生の、「蜘蛛の糸」の授業を思い出しますね。

たんとう花公園のチューリップまつり

2017年04月23日 | ふるさと




 嬉(うれ)しさは   ふるさと但馬  山(やま)ん中(なか)  カールおじさんの  チューリップ見るとき

たんとうチューリップまつりで、シャッターマンのおじさん大活躍

2017年04月23日 | ふるさと





 嬉(うれ)しさは   ふるさと但馬  シャッターマン  記念のカメラ  押すと言うとき

コウノトリ但馬空港

2017年04月18日 | ふるさと




 楽(たの)しみは   春の夕陽に  照らされる  飛行機飛べと  カメラ出すとき

   大阪に飛び立っていきました。

松岡のばば焼き

2017年04月14日 | ふるさと




 楽(たの)しみは   白とピンクが  一枝に  咲いて満開  桜見るとき



『おっ、ばば焼きの松の木が立ててあるよ。
ほら、それそれ』と、土手の下の草むらに立ててある御柱松(おとうまつ)を指さして、車の中から家内に話します。

今日は日高商品券店組合の総会です。
懇親会でお酒が出ます。なので家内に車で送ってもらいます。

走ります。松岡のあたり、途中の車窓から見えるばば焼きの準備の話をいたします。
同じ車窓から、川向こうの桜の木を指さして話します。

『あれ、、あれだよ。前に話していたばば焼きの頃に必ず満開になる珍しい桜の木、
あれが一つの枝に、白とピンクの花びらをつける桜の木なんだよ』と家内に話します。

「ああ、あれなん。ホント2色に咲いた桜の木ね。
今まで気が付かなかったわ。ほんと珍しい桜の木ね」とビックリするようにこたえます。

今年も律儀に松岡のばば焼きです。
そして、今年もしっかりと2色の桜は満開ですね。


「ばば焼きの話」を再掲します。



四月十四日の夕刻になりますと、松岡の円山川河川敷で「ばば焼き」と呼ばれる、とても珍しい行事が行われます。
ずいぶん歴史のある火祭りで、正しくは御柱祭り(おとうまつり)と称します。
今月は、この祭りの元となった松岡に伝わるふるさとのお話です。

府市場出身の菅村駅一さんの「匂うふるさと」の本から、そのさわりを紹介してみます。

ばば焼き祭りの由来

《むかしむかし、承久(じょうきゅう)の変の後、雅成親王(まさなりしんのう)と申すお方は、
但馬国(たじまのくに)、五荘村高屋(ごのしょうそんたかや)の里に配流になりました。
都のお妃様は、親王様の身の上をご案じられて、明け暮れ、お嘆きになっていましたが、
身重なおからだをもいといなく、うばひとりを連れ、慣れぬわらじを召されて、都をあとにはるばる但馬国高屋の里へと、お旅立ちになりました。

折しも春の半ば、見渡すかぎりの野原も山も、緑にもえて美しく、こずえに歌う鳥の声もわびしい旅情をお慰めしたことでしょう。
そして、道中泊まりを重ねて、ようやく但馬国松岡の里まで、おいでになりました。
なにしろ、遠く山坂超えての旅路でしたから、かよわい女の身は、綿のようにお疲れになって、
道ぶちの石にいこわせられ、ふと、岸辺で物洗いをしている、ひとりの老婆にお気付きになりました。

高屋までの道のりは

「少々、ものを尋ねます。五荘高屋の里へは、どう行けばよいでしょう。」とお聞きになりました。
すると老婆は、お妃様の姿を、しげしげと見ていましたが、
「それはまあ、たいへんでござります。高屋までおいでになるには、五日かかる池上(いけがみ)を行き、

七日かかる納屋(なや)を過ぎて、九日かかる九日市(ここのかいち)から、十日かかる豊岡(とよおか)へ出て、
人を捕る一日市(ひといち)を通らねばなりません。」と、
三里(十二キロ)にも足らぬ平穏な道を、さも、まことしやかに言いました。

これを聞かれたお妃様はおどろかれ、
「十日の日かずはいとわねど、人を捕る一日市とやらが恐ろしい・・・ようようここまで来たものを、ああ、どうしましょう・・・・・。」と、
じだんだ踏んでお嘆きになりました。

南の風になって 

「一日市とかで、捕らわれのはずかしめを受けるより、いっそ、このふち川へ身を投げて果てましょう。
死後は南の風になって高屋へ行きます。」と、言い残して、前を流れる深みへ、お沈みになってしまいました。

このことを知った村の人たちは、すぐ川からお助けしましたが、王子を生み落されたまま、ついに事切れてしまわれました。
歯ぎしりして残念がった村人は、逃げまどう老婆を捕えて、松の木にしばり付け、
「おのれ憎いうそつきばばめ、火あぶりにしてくれるわ。」と、下からどっと火を燃やし、焼き殺して、お妃様の恨みを晴らしました。

お妃様は、りっぱな長い髪のお方でしたから、身投げなさった時、その黒髪が、川いっぱいに広がって、
一里(約4キロ)の川下までも続いていたとのことです。また、じだんだを踏まれた足跡が、今もその川岸の岩に、残っているそうです。

十二所神社

松岡の川ぶちにある神社は、王子様とお妃様をお祭りした社で十二所(じゅうにしょ)神社と申します。
悪い髪の人は、その毛を供えてお祈りするとりっぱになるといわれています。

それから、この村の子供たちは、この老婆を憎んで、毎年三月十五日に、ばばの形のわら人形を作り、
松の木(おとうまつ)の上にくくり付けて、焼くようになりました。
これを、『ばば焼き祭り』といいます。この日には、不思議に南風が吹くということです。》 

「匂うふるさと」より


文中の三月十五日は旧暦で、新暦の四月十四日が「ばば焼き祭り」の行事です。
お妃様の心が親王様に届けと、必ず強い南風が豊岡の高屋に向かって吹くのです。

篠山城跡をいいアングルから一枚

2017年04月09日 | ふるさと

3階市長室から眺める、篠山城跡の桜は満開でした


 嬉(うれ)しさは   丹波篠山  大書院  市長室から  桜見るとき



『わ~、とても見晴らしが良いですね。
今日は、桜も満開できれいな眺めですね』と声を上げます。

篠山市役所のエレベーターで3階に上がり、市長室からベランダへ出ます。

桜が開花する時期に、「市長一人が、こんないい眺めを独り占めにするのはもっいたいない」という事から、
市役所本庁舎市長室の一般開放が決まったそうです。

案内していただいた職員さんに声をかけます。
『パンフレットの大書院の写真のとおりに写せました。通りからだと、石垣と屋根の一部だけしか写せないのです』とお礼を言います。

「よかったら城と桜をバックに、二人を写しましょうか」と、
親切にカメラをパチリと、シャッターしていただきました。

市役所3階の市長室から、満開の桜を眺めるなんて、とても記念になりました。

明日は国府ふれあい観桜会(かんおうえ)

2017年04月08日 | ふるさと




 嬉(うれ)しさは   国府ふれあい  観桜会(かんおうえ)  明日に合わせて  満開なるとき



今年は、ドンピシャリの満開になりました。

毎年開催されます国府ふれあい公園での桜を愛でる会、
国府ふれあい観桜会(かんおうえ)は、明日4月9日の日曜日です。

一週間前に散ってしまって、葉桜の日曜日もありました。
まだ蕾(つぼみ)の日曜日もありました。

今日は豊岡の気温が28.1℃で、全国の最高気温とニュースは伝えます。

あまりの暖かさにビックリしたのでしょうか。
桜の花も満開です。

今年はドンピシャリに、観桜会に合わせたように桜は満開になりました。
あとはお天気です。

天気さえよければ最高ですね。

新淀川や大阪築港の父と言われる沖野忠雄博士

2017年04月07日 | ふるさと




 嬉(うれ)しさは   エアコン工事  する先に  沖野博士の  生家見るとき



大阪新淀川の毛馬閘門には、
沖野忠雄の立派な像が建っています。

沖野忠雄は豊岡の出身です。
治水の神様、新淀川の父としてとても有名な工学博士・沖野忠雄は豊岡市大磯の出身です。

エアコン工事を近くでいたします。
晴れの気持ちの良い四月の日、草葺屋根の沖野博士の生家では見学者を迎えるためにでしょうか、

明るい日差しの下で、庭先の掃除がすすんでいます。
桜の花も蕾を膨らませ、今日にも花びらを開かんとしているようです。

100年前の痕跡なんて何~にも見つかりません

2017年04月06日 | ふるさと

久斗の弁天神社と弁天池


 楽(たの)しみは   ふるさとの話  ネタ求め  弁天池を  見て歩くとき



日高町史に書いてある、
「第一期工事の起工式は、日高小学校々庭で盛大に挙行されたが、各種の催し物で賑わい、町中が喜びに湧き返り、日高村はじまって以来の盛況であったという。
軌道用地は、約七メートルの幅員をとっており、その両側には幅約70センチメートルの側溝を掘り、用地買収と並んで着々と測量が行われ、軌道基礎工事が進んでいった。

久斗では、
区の公民館と弁天神社横の弁天池のまん中を、県道の南側50メートル内外のところを県道と並行して、久田谷まで東西に軌道が走っていた。
久田谷から伊府の通称庵山までは、田圃の中を一直線に軌道が続いた。」に沿って、西気鉄道の痕跡を探して歩きました。

無理ですね、西気鉄道の痕跡なんて何~にも見つける事が出来ませんでした。
100年経ったら工事のかけら一つ、痕跡一つすら見つける事が出来ませんでした。

5月号のふるさとの話に書きます、
「幻に消えた西気鉄道」の痕跡を探すネタの取材が続きます。





本日は、清浄明潔(しょうじょう・めいけつ)なる春の日です

2017年04月04日 | ふるさと




 楽(たの)しみは   春や清明(せいめい)  朝霧に  透ける朝日を  我浴びるとき



「明日は、用水路の水量を70cmで送ってください。頼みますよ」と、
社長会のコロセアムで電話を受けていました。

蓼川水路の3区、
豊岡市街の北の地区にあたる、Yさんから電話をもらっていました。

朝6時です。今日は二十四節季の清明(せいめい)の日です。
円山川の流れからは、濛々と朝霧が立ち昇っています。

昨日までの水量は30cmにキープしていました。
カギを開けて、井堰から水を取り入れる樋門のハンドルを回します。

水量70cmの見当が分かりません。
ハンドルをクルクルと回して、スケールを40目盛りくらいに上げます。

国道を横切って蓼川用水路の測定場所に下りて行き、スケールで水量を測ります。
『ありゃ~、80cmもあるがな』、流し込み過ぎで、途中の水路から水があふれてしまう恐れがあります。

樋門のハンドルを戻しに、また国道横切って行きます。
ほんの5cm下ろしました。トコトコと測定場所に行って深さを測ります。

『まだちょっと深いがな。もう少しかな』と、ハンドル操作を繰り返します。
円山川本流の水嵩によって、同じ樋門の開け閉めでも水量は違ってきます。

上流で雨が降って水嵩が増えてきても、
調整のために途中でも閉めに来なければならないと、前任者に聞いていました。

中々難儀なことなのです。
3回繰り返して依頼のあった70cmの水量になりました。

『やれやれ、これは大変な作業だな』と思いつつ、
川面から立ち上る朝霧を眺めます。

東から昇ってきた朝日が、霧を透かしてこちらを差します。
清明のように清々しい朝です。朝日を浴びながら早朝の難儀な作業を終えます。

バッチリ70cmの水量になりますね。

アトムさんは2期生ですか。私8期生でした。2期生の先輩達のうわさよく聞きました。

2017年04月02日 | ふるさと

出石温泉・乙女の湯


 楽(たの)しみは   隣のMさん  後輩の  同窓だったと  話するとき



「へ~~、アトムさんも電気科でしたか。
それで卒業は何期生なんですか?」とMさんが尋ねます。

今日日曜日は、池上ふれあいクラブの初総会でした。
池上ふれあいクラブって老人会の名前なのです。

今年からふれあいクラブに入ったというMさん、
隣に座って「同じ電気科でしたか。2期生なんですか。ボクはだいぶ後輩になります8期生なのです」と、
区内に電気科の卒業生がいることを初めて知って、驚いたように答えます。

Mさんは池上の生まれですが、ずっと関東の方に住んでおられたお方です。
年老いた独り暮らしのお母さんを介護で看るために、半年くらい前からふるさとの実家に帰ってこられているのです。
もう50年近く都会暮らしだったお方です。

「電気科の2期生ですか。あの噂の1、2、3期生の2期生なんですか」とまじまじと問われます。
『そうですよ、どうしましたか』、

「いや~~、担任のN先生がよく言ってたのですよ。
 “君ら~しゃんとせんか。あのな~、この電気科が出来て最初に入ってきた1期生の先輩ら、2期生も3期生もすごかったんだよ” 」、

「 “1期生らの先輩は、豊高に行くより優秀な者ばっかり、賢い子らが電気科に入って来たんだよ。
よう出来た子らで、電検3種なんか2年生で受かったぞ、何人も” と、よう聞かされたんです」と会話です。

『N先生は私も担任でしたよ。
電検3種ですか。大阪まで2回も行って受ける試験だわ、私も2年生で受かって教室で後輩に受験勉強教えたこともしましたよ』、

『電気科の卒業生で、そうねMさんと同じくらいの人に “2期生です。私は” と言ったら、
Mさんと同じように感心されることよく聞きますよ』と話します。

Mさんはおっしゃるのです。
「ぼくんちも貧乏だってね、とても豊高行って上の学校進めんし、それならと思って就職に有利な電気科にしたの。
僕は重電メーカーで関東の方に就職して、横浜で夜間の大学にも行きました」、

「でも感じましたよ。
全国から来た同輩の者たちで豊岡出身の電気科出身のもんはひけをとらんかったよ、レベルけっこう上って感じたよ」なんて話をいたします。

私んちも貧乏でしたからMさんと同じです。
春4月にリンゴ三つ持って就職したことを話します。

今日の総会、隣のMさんに電気科のいろいろ懐かしい話を聞きますね。

日高神鍋高原インターチェンジ

2017年04月01日 | ふるさと

北近畿豊岡自動車道・八鹿日高道路・日高神鍋高原IC (右手の山をトンネルで抜いて、コウノトリ但馬空港道路に延伸します) 



 楽(たの)しみは   今も昔も  交通の  要(かなめ)とりあい  不思議知るとき



来月号(5月号)のふるさとの話は、
「幻に消えた西気鉄道」にしようとネタと資料を探します。

再来月号(6月号)のふるさとの話は、
「悲運な出石軽便鉄道」にしようとネタを探します。

明治時代の山陽鉄道、
山陰鉄道の路線計画の資料などから読み解いてまいります。

ルート選定にあたって、地元への誘致を請願する活動の様はものすごいものがあり、
歴史を読み進めて行きますと、幸運悲運の物語に出合います。

「幻の西気鉄道」も、「「悲運な出石鉄道」も、
話にもってこいのネタがありました。

今も昔も交通の要(かなめ)をどこに持ってくるかは、
不思議なほどの攻防があるのです。

先日の会合で地元の電気屋さんに聞きました。

『ずっとずっと昔のことなんだけれど、西気鉄道(但馬軽便鉄道)のこと知ってる。
近くに鉄道の工事の名残りなんてないか知ってる』と聞きました。

その電気屋さんのある地区を、
西気鉄道の工事があったことを資料で読んでいたから聞いたのです。

「知らんなあ、知らんわそんな名残りなんて」、
「それこそ、とうとう高速のインターチェンジが日高に開通したけれど、最初の計画では三方地区の方に抜けて久田谷あたりにIC来るはずだったね」と話しが弾みます。

八鹿の国道9号線から、日高町に向かうコースの話です。

「とがやまトンネルを抜けて、次に三谷トンネルはガ~っと右にカーブして2800mも長いだろ。
その後も、三つもトンネル抜いて久斗に来ているけれど、最初は違ったわな」、

「とがやまトンネルの次は、真っすぐ馬瀬を珍坂トンネルと同じところを抜ければ近いのに、
知見に出たらそのまま広い三方に出れたのに、久田谷あたりにインターチェンジ出来るって最初は聞いてたね」と話します。

不思議ですね。
直進しないで山の中を串刺しにトンネル掘って、やっぱり日高町の中心部に向かうようになったようなのです。

今も昔も交通の要(かなめ)をどこに持ってくるかは、
不思議な経緯(いきさつ)があるようです。

左に遠く、まだ雪のある奥神鍋スキー場を見て、
眼下のインターチェンジを見ながら、「幻に消えた西気鉄道」のネタをどうするかを考えますね。