出石町暮坂 多田弥太郎の顕彰碑
(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成29年 第12回但馬検定(3級)問題より
【21】 江戸時代末期1863 年(文久3)に全国に先駆けて倒幕の口火を切り、
尊皇攘夷を掲げた北垣国道らが起こした事件は、何と呼ばれているでしょうか。
(a) 出石の変 (b) 村岡の変 (c) 豊岡の変 (d) 生野の変
出石の変、村岡の変、豊岡の変も、そんな名前の事件は有りません。
答えは、(d)の生野の変です。
『勤王の志士 多田弥太郎』
ケンちゃん、じいちゃんはね、毎月ひとつ「ふるさとの話」を書いているの。
11月の売り出し号のチラシに載せる「ふるさとの話」が、生野義挙とも呼ばれ
る生野の変の話なの。
幕末は黒船騒ぎのころ、大和国で天誅組が五条代官所を襲撃して挙兵した、天誅
組の変という倒幕事件があったの。失敗してしまったけれどね。その直後に起こ
ったのが、生野代官所を占拠する生野の変なんよ。
尊王攘夷を掲げて倒幕ののろしを上げた、第一号第二号ってわけ。その後、明
治維新まで次から次へと、〇〇騒動とか〇〇事件とかが続いていくのよ。生野の
変は、倒幕の先駆けだったと言うことなんよ。
生野義挙(生野の変)に中心メンバーとして参加した、出石の多田弥太郎の話し
を「ふるさとの話」に書いたんよ。
ふるさとの話㉞十一月号
浅間トンネルを出石に抜けたところに、勤皇の志士・多田弥太郎の碑が立ってい
ます。今月は土佐の坂本竜馬にも似た激動の人生を駆け抜けた悲劇の主人公、出
石の多田弥太郎のお話です。
クイズのヒントも隠れています。
養父の北垣国道(くにみち)
今年も出ました。但馬検定によく出てくる人物です。養父市能座出身の北垣国道
(くにみち)と、朝来市佐中出身の原六郎です。京都府知事として、琵琶湖疏水を
完成させた北垣国道も、明治の経済界に君臨した実業家の原六郎も、但馬が生んだ
出世頭としてとても有名です。
北垣晋太郎から北垣国道に、進藤俊三郎から原六郎に、二人とも改名しています。
改名は生野義挙におおいに関係しているのです。
但馬検定には出てこない出石藩出身の多田弥太郎は、吉田松陰の如き海防を説き、
坂本竜馬の如き勤皇の志士として諸藩を駆け巡った人物です。生野義挙に関わった
あと浅間峠での隕命の姿は、斬首の松陰や竜馬の最期以上に痛ましいものでした。
出石の多田弥太郎
多田弥太郎は、文政九年(1826)に出石藩城下柳町に生まれています。弥太郎は
幼少の頃より天才の兆し強く、藩校弘道館に学んだあと大阪に出て、藤沢東畡(とう
がい)、古賀侗庵(どうあん)に就いて朱子学を学びます。さらに、幕府昌平黌(東
京大学)で学を深めます。
主命により帰藩して、若干二十二才で弘道館教授となるのです。このころ黒船が浦賀
に姿を見せ、世情は騒然とします。弥太郎は海防を志すようになり、長崎に出向き西
洋砲術を学びます。帰藩し、嘉永二年(1849)のころ、出石城外室の台で藩主久
利の御前で洋式大砲(木製)を試射し、近隣諸藩の有志に名声を博して名を轟かせて
います。
幽閉九年の間に
弥太郎には萩藩の松陰とよく似た状況が身に降りかかります。嘉永七年のころ、出
石藩で藩政や兵制の問題が勃発し、単身江戸に糾弾の上書を出すのです。捕えられて
出石に逆送され、牢獄に九年間幽閉されます。その間に「国体一覧」、「海防難議」、
「地球小識」、「闢蝦夷策」等を著し、水戸斉昭公に国防の策を献じ、蝦夷を北海道
と改名することや、屯田兵制度や蝦夷地開拓を提言して括目され広く名が知れ渡りま
す。九年後、再び弘道館に迎えられるものの、勤皇の志篤く倒幕への運動に突き進ん
で行くのです。
生野義挙
文久三年(1863)十月、倒幕の生野義挙に同志高橋甲太郎らとともに参加するの
です。北垣晋太郎や進藤俊三郎も加わる筈でした。豊岡藩や出石藩の鎮圧部隊によっ
て、あっという間に敗れてしまいます。北垣、進藤らは京都から駆けつける途中で鎮
圧を聞き、長州方面に逃げ延びます。その後改名して鳥取藩に隠れ、戊辰戦争を戦い、
新政府になってから日の目を見て活躍するのです。
浅間峠
多田弥太郎は敗れるに及び、後日を画して主将沢卿を説き伏せ、高橋甲太郎を従わ
せて長州に落ち延びさせたのです。挙兵の志士の多くは、山口村妙見山麓で自刃して
しまいます。弥太郎は逃れて京都に潜みます。
生野義挙参加者への探索厳しい中を、再び因幡や伯耆に倒幕の志士を募るため但馬の
地に足を踏み入れます。密告により八鹿寄宮の宿で藩吏に捕らわれ、籠に乗せられ出
石に護送されます。途中、浅間峠頂上にさしかかった時、突然藩の兵士に襲われ斬殺
されてしまうのです。時に元治元年(1864)二月二十八日、三十九才の若さで明
治維新の導火線となり散りました。
生き延びれば、明治の世に活躍したであろう多田弥太郎の死は、あまりにも悔やまれ
ることでした。
時移り、明治二十四年、明治政府は故人の忠烈の死を悼み、その功を嘉して特旨従
四位を贈り、靖国神社に合祀したのでした。
(多田弥太郎顕彰の碑文や、但馬事典を参考にして書きました)
(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成29年 第12回但馬検定(3級)問題より
【21】 江戸時代末期1863 年(文久3)に全国に先駆けて倒幕の口火を切り、
尊皇攘夷を掲げた北垣国道らが起こした事件は、何と呼ばれているでしょうか。
(a) 出石の変 (b) 村岡の変 (c) 豊岡の変 (d) 生野の変
出石の変、村岡の変、豊岡の変も、そんな名前の事件は有りません。
答えは、(d)の生野の変です。
『勤王の志士 多田弥太郎』
ケンちゃん、じいちゃんはね、毎月ひとつ「ふるさとの話」を書いているの。
11月の売り出し号のチラシに載せる「ふるさとの話」が、生野義挙とも呼ばれ
る生野の変の話なの。
幕末は黒船騒ぎのころ、大和国で天誅組が五条代官所を襲撃して挙兵した、天誅
組の変という倒幕事件があったの。失敗してしまったけれどね。その直後に起こ
ったのが、生野代官所を占拠する生野の変なんよ。
尊王攘夷を掲げて倒幕ののろしを上げた、第一号第二号ってわけ。その後、明
治維新まで次から次へと、〇〇騒動とか〇〇事件とかが続いていくのよ。生野の
変は、倒幕の先駆けだったと言うことなんよ。
生野義挙(生野の変)に中心メンバーとして参加した、出石の多田弥太郎の話し
を「ふるさとの話」に書いたんよ。
ふるさとの話㉞十一月号
浅間トンネルを出石に抜けたところに、勤皇の志士・多田弥太郎の碑が立ってい
ます。今月は土佐の坂本竜馬にも似た激動の人生を駆け抜けた悲劇の主人公、出
石の多田弥太郎のお話です。
クイズのヒントも隠れています。
養父の北垣国道(くにみち)
今年も出ました。但馬検定によく出てくる人物です。養父市能座出身の北垣国道
(くにみち)と、朝来市佐中出身の原六郎です。京都府知事として、琵琶湖疏水を
完成させた北垣国道も、明治の経済界に君臨した実業家の原六郎も、但馬が生んだ
出世頭としてとても有名です。
北垣晋太郎から北垣国道に、進藤俊三郎から原六郎に、二人とも改名しています。
改名は生野義挙におおいに関係しているのです。
但馬検定には出てこない出石藩出身の多田弥太郎は、吉田松陰の如き海防を説き、
坂本竜馬の如き勤皇の志士として諸藩を駆け巡った人物です。生野義挙に関わった
あと浅間峠での隕命の姿は、斬首の松陰や竜馬の最期以上に痛ましいものでした。
出石の多田弥太郎
多田弥太郎は、文政九年(1826)に出石藩城下柳町に生まれています。弥太郎は
幼少の頃より天才の兆し強く、藩校弘道館に学んだあと大阪に出て、藤沢東畡(とう
がい)、古賀侗庵(どうあん)に就いて朱子学を学びます。さらに、幕府昌平黌(東
京大学)で学を深めます。
主命により帰藩して、若干二十二才で弘道館教授となるのです。このころ黒船が浦賀
に姿を見せ、世情は騒然とします。弥太郎は海防を志すようになり、長崎に出向き西
洋砲術を学びます。帰藩し、嘉永二年(1849)のころ、出石城外室の台で藩主久
利の御前で洋式大砲(木製)を試射し、近隣諸藩の有志に名声を博して名を轟かせて
います。
幽閉九年の間に
弥太郎には萩藩の松陰とよく似た状況が身に降りかかります。嘉永七年のころ、出
石藩で藩政や兵制の問題が勃発し、単身江戸に糾弾の上書を出すのです。捕えられて
出石に逆送され、牢獄に九年間幽閉されます。その間に「国体一覧」、「海防難議」、
「地球小識」、「闢蝦夷策」等を著し、水戸斉昭公に国防の策を献じ、蝦夷を北海道
と改名することや、屯田兵制度や蝦夷地開拓を提言して括目され広く名が知れ渡りま
す。九年後、再び弘道館に迎えられるものの、勤皇の志篤く倒幕への運動に突き進ん
で行くのです。
生野義挙
文久三年(1863)十月、倒幕の生野義挙に同志高橋甲太郎らとともに参加するの
です。北垣晋太郎や進藤俊三郎も加わる筈でした。豊岡藩や出石藩の鎮圧部隊によっ
て、あっという間に敗れてしまいます。北垣、進藤らは京都から駆けつける途中で鎮
圧を聞き、長州方面に逃げ延びます。その後改名して鳥取藩に隠れ、戊辰戦争を戦い、
新政府になってから日の目を見て活躍するのです。
浅間峠
多田弥太郎は敗れるに及び、後日を画して主将沢卿を説き伏せ、高橋甲太郎を従わ
せて長州に落ち延びさせたのです。挙兵の志士の多くは、山口村妙見山麓で自刃して
しまいます。弥太郎は逃れて京都に潜みます。
生野義挙参加者への探索厳しい中を、再び因幡や伯耆に倒幕の志士を募るため但馬の
地に足を踏み入れます。密告により八鹿寄宮の宿で藩吏に捕らわれ、籠に乗せられ出
石に護送されます。途中、浅間峠頂上にさしかかった時、突然藩の兵士に襲われ斬殺
されてしまうのです。時に元治元年(1864)二月二十八日、三十九才の若さで明
治維新の導火線となり散りました。
生き延びれば、明治の世に活躍したであろう多田弥太郎の死は、あまりにも悔やまれ
ることでした。
時移り、明治二十四年、明治政府は故人の忠烈の死を悼み、その功を嘉して特旨従
四位を贈り、靖国神社に合祀したのでした。
(多田弥太郎顕彰の碑文や、但馬事典を参考にして書きました)