落合順平 作品集

現代小説の部屋。

東京電力集金人 (56)はるかなる、北の空

2014-08-10 13:32:42 | 現代小説
東京電力集金人 (56)はるかなる、北の空



 「あの子ねぇ。ときどき、寂しそうな眼をして北の空を見ているのよ。
 もしかしたらあの子は、生まれ育った浪江町に帰りたいんじゃないかしら」


 奥さんの春江さんが先輩に耳打ちしたのは、つい数日前のことだ。
作業の手を休め、北の空を見上げているるみの様子は、先輩もたびたび目撃をしている。
寂しそうな眼をしていたかどうかは確認できなかったが、どことなく元気がない。
たしかに物思いには沈んでいる・・・先輩の眼にも、そんな風にるみの姿が映っていた。



 潰れたハウスから目を北へ転じると、青々とした赤城山がいきなり視界に飛び込んでくる。
南と西に長い山裾を引く赤城山の姿は、昔から群馬のシンボルとして親しまれている。
その昔、侠客の国定忠治は、悪代官を切り捨ててこの山の中に逃げ込んだ。
「赤城の山も今宵限り、可愛い子分のお前たちとも別れ別れになる定めだぁ・・・」
と発した有名なセリフは、この山の中腹から生まれたものだ。
また落城寸前の江戸幕府は大政奉還の直前に、巨額な埋蔵金をこの山のどこかに、
ひそかに運び込んだという伝説も、まことしやかに残っている。
江戸から荷物を積んだ船が、大河の利根川を源流に向かってさかのぼってきたとき、
この先で流れが一気に急流にかわることから、赤城の埋蔵金伝説が産まれている。


 東京から北関東へ戻ってくるとき、関東平野の奥端に位置しているこの赤城山は、
両翼をおおきく広げて、まるで帰ってくる群馬県民たちを「お帰り」と言うかのように、
懐かしい姿で出迎えてくれる。


 関東平野の北端にそびえる赤城山は、北日本に連なっていく山塊群の起点にもあたる。
赤城山を北に越えれば、広大な高原湿地で知られる尾瀬ヶ原にたどり着く。
東へ目を転じれば豪雪のため、冬の間は閉ざされてしまう最大標高2024メートルの
地点を走る金精峠の山並みが見える。
金精峠は、栃木県日光市と群馬県利根郡片品村の県境に位置する峠だ。
毎年。年末のクリスマスの日から、5月連休直前の4月25日の正午まで、
雪のために、半年近くも閉ざされてしまう珍しい国道だ。



 「日本ロマンチック街道」の一部をなす金精峠には、2000メートルを超える峰々が連なる。
里に桜が咲いても山々には、白い雪がたっぷりと積もったまま残っている。
後方に福島の山々が控えているのだが、残雪を載せた2000メートル級の山並みに阻まれて、
残念ながら、此処からは確認することが出来ない。
そんな悔しさも含めて、るみの眼には、淋しさが浮かんでいるのかもしれない・・・
(なんだか、そんな気もするなぁ)とぽつりと先輩がつぶやいたとき、
仲良く並んで北の方角を見上げているるみと、奥さんの姿が飛び込んできた。


 「左に見える背の高い山が、群馬の皇海山(すかいさん)。
 そのとなりが康申山で、中央にポツンと突き出している白い雪の高峰が、日光白根山。
 面白いことに群馬には、ふたつの白根山が有るの。
 東の県境にそびえているのが、標高2,578メートルをほこる成層火山の日光白根山。
 成層と言うのは、火山活動で降り積もった堆積物で、円錐形になった火山の事です。
 もうひとつは草津温泉の奥で、長野との県境に有る、草津白根山。
 こちらはエメラルド色の火口湖を持っていることで、みなさんに良く知られています。
 あなたの故郷、福島の山並みは残念ながら、ここからは見えませんねぇ」


 寄り添うように立った奥さんが、右手をかざして、北関東のパノラマを指さします。
平坦地が途絶えるこのあたりからは、視界の3方向に、数多くの高峰を望むことができる。
ゆいいつ東には、栃木や茨城に向かう関東平野の平坦地が続いている。
そのため、東の方向だけは比較的緩やかな山塊が立ち並ぶ。
ポンとひとつだけ抜きん出た三角形の高山が、桐生市の奥にそびえている鳴神山(なるかみやま)だ。
北部や西部に見える2000メートル級の山々から比べれば、はるかに見劣りがする。
だが平野部で最初に出会う1000メートル近い山頂からは、晴れた日ならば、
関東平野のすべてを簡単に眺望することができる。



 「主人に連れられて、鳴神山の頂上までハイキングしたことが有るの。
 驚いたわよ。東京の都心はもちろん、はるかに、あたしの千葉まで眺望できるんだもの。
 関東平野は日本で一番の広さを持っていると学校で習ったけど、眼下にすべての景色を
 はっきりとのぞむと、背中に、なんともいえない快感が走るわよ。
 それからかな・・・暇さえあれば、近くの山を2人で登りはじめたのは」


 「いいですねぇ、夫婦で共通の趣味が有るなんて。うらやましいかぎりの話です」


 「うふふ。それほど現実は甘く有りません。
 子供が出来るまでの旦那さんとの、短い蜜月(ハネムーン)です。
 あなたが産まれたのは、ここからはるか北に離れた福島の地。
 私が産まれたのは、正反対の真南。それも房総半島の最南端に近い町。
 そんな2人が、ここでこうして出会うことになるなんて、人の生き方なんてわかんないものね。
 ねぇ。ひとつだけあなたに聞いてもいいかしら?」
 

(57)へつづく


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