東京電力集金人 (64)月の輪酒造
かつての月の輪酒造は、高さ3メートルほどの堤防を挟み、雄大な太平洋と対峙していた。
浪江町の請戸地区のはずれに建っていた酒蔵で、漁港とは背中合わせの位置関係にある。
日本で一番、もっとも海に近い酒蔵として名前を知られている。
創業したのは江戸の末期。
月の輪酒造の看板商品、「いわきの華」は、大漁を祝う漁師の酒として長いあいだにわたり、
海の男たちから愛されてきた。
酒造りには、一升瓶(1.8リットル)あたり、10倍強の水が必要とされる。
月の輪酒造の製造石数は、300石。一升瓶にしておよそ30,000本。
単純に計算しても、54万リットルの水が酒造りのために使われることになる。
月の輪酒造ではすべての行程において、自前の井戸水を使っている。
海に近い井戸水は、一般的に塩分が濃く「渋水」と呼ばれる。
だが月の輪酒造の井戸水には、こうした苦水特有の渋味や苦味がまったく含まれていない。
創業以来涸れたことのない井戸水は、請戸川の伏流水といわれているためだ。
井戸は、川の水圧と海の水圧が合わさる地点にぴったりと位置している。
海からの恵みとして、多くのミネラル分とクロール成分が多量に含まれている。
この2つの成分は、それぞれ発酵に与える別々の働きをもたらす。
ミネラル分は、酵母の発酵を旺盛にさせる。
クロール成分は酒米をほどよく溶かし、米の旨みを引き出す。
この一帯の井戸水は、数メートル深さが違っただけで水質が異なる。
酒蔵の敷地内には、仕込み用として使われている井戸以外に、4つの井戸が残っている。
水質の異なる井戸を、上手に使い分けてきたためだ。
現在の仕込み水は、発酵が進みやすい硬水だ。
酒米を溶かすクロール成分が絶妙のバランスで含まれており、この水で仕込んだ酒は
独特のとろみを持ち、他にはない絶妙な触感(舌ざわり)を生み出す。
6代目当主にあたる若女将は、生まれた時から酒蔵の跡取りになる道を歩んだ。
大学を出た彼女は、当時としては珍しい女性杜氏のひとりとなり、長年の稼業を支えた。
「順調とは言えないが、女だてらに月の輪酒造の当主として彼女は頑張り続けた。
だが東北3県を襲った3・11の激震と大津波は、150年余りの歴史を持つ酒蔵を根こそぎにした。
なんとか蔵の形が有るうちはと、彼女は浪江町での再建を決意した。
しかし10キロほど離れたところに建っている福島第一原発が、彼女にさらなる追い打ちをかけた。
強制避難の指示が出て、月の輪酒造は、帰宅困難地区内の指定を受けた」
「そんな状態の中からでも、月の輪酒造は復活をしたというのですか?」
「避難生活から、一か月が経った頃のことだ。
検査のため福島県試験場に預けておいた酵母が残っていると、彼女の元へ連絡が届いた。
酵母は、酒造りの命だ。
避難生活を続けながらも彼女は、再起のための道を探り始めた。
色々な酒蔵をまわり、色々な人たちと繋がるなかで平成23年10月、山形県長井市にある
『東洋酒造』が後継者がなくなり、今期で酒造りを断念するという話を聞き、蔵を見学に行った。
自分が思い描く夢を実現できそうな酒蔵の造りと、『水』の良さが決め手になったそうだ。
生まれ育った浪江町へ帰れるまでは、途方もない時間になる事は最初から理解しているが、
それでも彼女は山形県の長井市でまた、「いわきの華」を作りはじめた」
「るみが杜氏になりたいと言って憧れていた月の輪酒造が、復活をしていたなんて・・・
凄いなぁ東北は。捨てたもんじゃありませんね、日本の酒蔵も」
「馬鹿野郎、呑気な感想を口にして居る場合じゃないだろう。この薄らトンカチ。
だからお前はノー天気すぎて駄目なんだ。
いいかよく聞け。お前がいくら優しく接しても、それでるみちゃんの病気が治るわけじゃない。
群馬で所帯を持ち、気長に療養に努めれば良くなるだろうなんて、甘く考えるな。
お前のことだ。持ち前の優しさをフルに発揮すれば、そのうちになんとかなるだろうと
甘く、呑気に考えているんだろう」
「優しく接するだけでは、ダメなんですか?。
だってそれ以外に接しようがないと思いますよ。るみの病気の場合は」
「太一。何もわかっていないな、お前と言う男は。
人が生きるということの意味を、もっと真正面からしっかり見つめろ。
優しさだけでひとが生きていけたら、誰も苦労なんかしないさ。
お前の言っている優しさは、何もしないでただ見つめているだけの優しさだ。
そんなことなら赤の他人にでも出来る。
もっと真正面から、生命(いのち)そのものを、しっかりと見つめろ。
人が持っているもっとも尊いものが、いのちそのものだ」
「命を見つめろ・・・ですか?」
(65)へつづく
落合順平 全作品は、こちらでどうぞ
かつての月の輪酒造は、高さ3メートルほどの堤防を挟み、雄大な太平洋と対峙していた。
浪江町の請戸地区のはずれに建っていた酒蔵で、漁港とは背中合わせの位置関係にある。
日本で一番、もっとも海に近い酒蔵として名前を知られている。
創業したのは江戸の末期。
月の輪酒造の看板商品、「いわきの華」は、大漁を祝う漁師の酒として長いあいだにわたり、
海の男たちから愛されてきた。
酒造りには、一升瓶(1.8リットル)あたり、10倍強の水が必要とされる。
月の輪酒造の製造石数は、300石。一升瓶にしておよそ30,000本。
単純に計算しても、54万リットルの水が酒造りのために使われることになる。
月の輪酒造ではすべての行程において、自前の井戸水を使っている。
海に近い井戸水は、一般的に塩分が濃く「渋水」と呼ばれる。
だが月の輪酒造の井戸水には、こうした苦水特有の渋味や苦味がまったく含まれていない。
創業以来涸れたことのない井戸水は、請戸川の伏流水といわれているためだ。
井戸は、川の水圧と海の水圧が合わさる地点にぴったりと位置している。
海からの恵みとして、多くのミネラル分とクロール成分が多量に含まれている。
この2つの成分は、それぞれ発酵に与える別々の働きをもたらす。
ミネラル分は、酵母の発酵を旺盛にさせる。
クロール成分は酒米をほどよく溶かし、米の旨みを引き出す。
この一帯の井戸水は、数メートル深さが違っただけで水質が異なる。
酒蔵の敷地内には、仕込み用として使われている井戸以外に、4つの井戸が残っている。
水質の異なる井戸を、上手に使い分けてきたためだ。
現在の仕込み水は、発酵が進みやすい硬水だ。
酒米を溶かすクロール成分が絶妙のバランスで含まれており、この水で仕込んだ酒は
独特のとろみを持ち、他にはない絶妙な触感(舌ざわり)を生み出す。
6代目当主にあたる若女将は、生まれた時から酒蔵の跡取りになる道を歩んだ。
大学を出た彼女は、当時としては珍しい女性杜氏のひとりとなり、長年の稼業を支えた。
「順調とは言えないが、女だてらに月の輪酒造の当主として彼女は頑張り続けた。
だが東北3県を襲った3・11の激震と大津波は、150年余りの歴史を持つ酒蔵を根こそぎにした。
なんとか蔵の形が有るうちはと、彼女は浪江町での再建を決意した。
しかし10キロほど離れたところに建っている福島第一原発が、彼女にさらなる追い打ちをかけた。
強制避難の指示が出て、月の輪酒造は、帰宅困難地区内の指定を受けた」
「そんな状態の中からでも、月の輪酒造は復活をしたというのですか?」
「避難生活から、一か月が経った頃のことだ。
検査のため福島県試験場に預けておいた酵母が残っていると、彼女の元へ連絡が届いた。
酵母は、酒造りの命だ。
避難生活を続けながらも彼女は、再起のための道を探り始めた。
色々な酒蔵をまわり、色々な人たちと繋がるなかで平成23年10月、山形県長井市にある
『東洋酒造』が後継者がなくなり、今期で酒造りを断念するという話を聞き、蔵を見学に行った。
自分が思い描く夢を実現できそうな酒蔵の造りと、『水』の良さが決め手になったそうだ。
生まれ育った浪江町へ帰れるまでは、途方もない時間になる事は最初から理解しているが、
それでも彼女は山形県の長井市でまた、「いわきの華」を作りはじめた」
「るみが杜氏になりたいと言って憧れていた月の輪酒造が、復活をしていたなんて・・・
凄いなぁ東北は。捨てたもんじゃありませんね、日本の酒蔵も」
「馬鹿野郎、呑気な感想を口にして居る場合じゃないだろう。この薄らトンカチ。
だからお前はノー天気すぎて駄目なんだ。
いいかよく聞け。お前がいくら優しく接しても、それでるみちゃんの病気が治るわけじゃない。
群馬で所帯を持ち、気長に療養に努めれば良くなるだろうなんて、甘く考えるな。
お前のことだ。持ち前の優しさをフルに発揮すれば、そのうちになんとかなるだろうと
甘く、呑気に考えているんだろう」
「優しく接するだけでは、ダメなんですか?。
だってそれ以外に接しようがないと思いますよ。るみの病気の場合は」
「太一。何もわかっていないな、お前と言う男は。
人が生きるということの意味を、もっと真正面からしっかり見つめろ。
優しさだけでひとが生きていけたら、誰も苦労なんかしないさ。
お前の言っている優しさは、何もしないでただ見つめているだけの優しさだ。
そんなことなら赤の他人にでも出来る。
もっと真正面から、生命(いのち)そのものを、しっかりと見つめろ。
人が持っているもっとも尊いものが、いのちそのものだ」
「命を見つめろ・・・ですか?」
(65)へつづく
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