おとなしい静かなお婆さん、いつもお礼を言うお婆さん、
時間を気にするお爺さん、元気な声で号令を掛けられるお爺さん、
喧嘩ごしのお爺さん、“先生”と呼ばれて如何にも品の良いお爺さん。
「そうよ、そうよ」と、お返事が決まっているお婆さん
大きな声で要求できるお婆さん、独り言をしゃべっているようなお婆さん、
お人形に話しかけて優しい眼差しのお婆さん。
ある施設のご老人の方々。
こんなに多くを並べ立てたお爺さん、お婆さんの風景。
実は、まだまだ一杯見ている。
見せて頂きながら、学ばせてもらっている。
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私の将来は如何にあるのかと…
これからを生きる姿勢はどうあらねばならないのかと思い図っている。
色々なことを忘れていくのだろうと思う。
けれど印象深いことは、知らず知らずのうちにふっと脳裏に浮かぶのだろう。
心に着せるものもなく、全て脱ぎ捨てて今を生きているご老人の姿…
それは私の先生たち、尊敬しながら見守らせていただいている方々。
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無意識のなかでも、嫌な心では生活したくない。
やさしく思いやりのある言葉で表現できて、感謝の心やさらに知的好奇心、
自分以外のこと、外界にも眼を向けていたいナァ。
自分の気持ちに正直で自分を殺してまでも生きることもなくなるのだろうけれど、
そんなときの我儘は周囲で許せるような範囲でありたいものだ。
私の母には神様が付き添っていてくれているのではないかと思う。
脳梗塞で右半身不随、すなわち左脳の働きが悪くなってしまった。
言語障害! 言わば“人魚姫”となってしまった。
人魚姫は人間になりたかった。王子様の傍に居たかった。
魚の尾ひれではなく人間の足欲しさに、綺麗な澄んだ声と交換したあの人魚姫。
王子様の愛が人魚姫に向けられなくなったら海の泡になって消えるとの約束。
声をなくしたので、王子様に告白する道は塞がれたけれど
愛は伝わると信じて疑わなかった人魚姫…。
*
“人魚姫”になった母は、周りの人たちに感謝の言葉も言えないけれど、
その言えない悲しさを周りは思い遣っていくしかない。
思いやりのなかで、母は満足のうち(多少の不満は許してね)にいてくれていると思う。
穏やかな表情、耳は悪くないのでこちらが言うことはよく理解してくれる。
ニコニコしてくれるし、私と他の人との会話を聞いて嬉しそうにしてくれる。
母の満足は私自身の安堵感と満足感と慰め!
ただ犠牲の上のもとにさせて頂いている“今”を大いに意識し感謝している。
いつまで介護し続けるられるかとふと立ち止まり…
しかし、これを止めることは一生の後悔になりそうな気がして、
ずっと“今”を継続している。