昨日の研修は「寺院における葬儀のあり方」と題した講演でした。
運営をお手伝いする都合で、朝から会場に詰めていましたので、一日がかりの仕事となってしまいました。
講師は生命保険会社の研究所に所属されている死生観などを研究する女性の方でした。
講演内容は、調査資料をもとに出生率と死亡者数の推移、アンケート調査による一般日本人の死生観の説明などが中心で、今週火曜日に行われた講演と似通った内容でした。
それぞれの主催者がこのテーマを選ぶというのは、それだけ葬儀に対する危機感が高いからなのでしょう。
昨日も講師から話が出ましたが、最近は”直葬(じきそう)”と呼ばれる葬儀が増え、東京では既に葬儀全体の4割を占めるまでになっているとの報告もありました。
直葬とは、ご家族が亡くなっても、家に戻さずそのまま火葬場に直行するやり方のことです。
いわゆる普通思い浮かべる葬儀、たとえば、自宅や、お寺や、斎場などで、会葬者がいて、家族がいて、僧侶による葬儀が行われてという形ではなく、社会的な通過儀礼、宗教的な儀式を行うことなく、いわば、遺体処理とでも言ったほうがいいようなやり方のことを指すのです。
ですから、何か字だけを見ると葬儀のような錯覚を起こしますが、実際には葬儀をしていないのですから、葬という字を使うのは間違えで、”直送(ちょくそう)”とすべきでしょう。
病院からそのまま御遺体を火葬場に運ぶといっても、実際には亡くなった方は法律上、死亡してから24時間は火葬できないことになっていますから、その間、火葬場などで待機し、時間が来たら火葬するということなのです。
しかも、ほとんど立ち会うのは家族のみ、火葬炉の前で僧侶の読経があればよい方で、それさえもないというケースが多くなってきているとのこと。
そして、この火葬炉の前で読経するだけの形をワンデイセレモニーと呼ぶこともあるのだそうです。
ワンデイセレモニーの名前の由来は、普通葬儀はその前に通夜がありますから最低でも2日はかかります。
それを一日、しかも火葬炉の前だけで行うのでそう呼ばれるのだそうです。
でも、まだお経をあげてもらえるのはいい方で、それさえもない形が増えているとのこと。
しかし、そういう形で家族を送った方も、亡くなって1年ぐらいすると、一周忌をしたいのだけれどどうすればいいのかというような質問をその講師の方の勤め先である研究所にされるということがあるのだそうです。
僧侶による葬儀式を受けていませんから、当然戒名などもありません。
その状態で法要をしてもらうことはとても難しいことです。
また、最近韓流ドラマのシーンでよく散骨のシーンがあり、それにあこがれたり、家族に経済的な迷惑をかけたくないとの思いで散骨を希望された方が、亡くなった後、その希望通りに散骨されたものの、残されたご家族が心のよりどころが持てずに困惑したり、どこに手を合わせていいかわからないので、散骨をした海上まで、わざわざ船をチャーターしてお参りに行くという事例もあるそうです。
そんなことなら普通に葬儀をして、お墓に納骨された方が良かったのではないかと感じることもあるそうです。
葬儀については諸説いろいろな考え方があるかとは思いますが、いままで続いていたやり方というのは、それなりに意味があるから今まで残ってきたともいえます。
宗教的な意味はそれぞれの宗派によって違いますが、社会的にみて葬儀というのは人が必ず通る通過儀礼でもあり、社会的なシステムでもあるはずです。
歴史的に見ても、葬儀というのは家族のものではなく社会的なものでした。
それを家族という、あるいは個人という小さな単位で考えてしまっているところに問題があるように感じます。
それぞれの社会というのは、その社会を維持し、共同体として機能するための様々なルールを持っています。
人をその共同体から送りだす儀式としての葬儀は、社会を維持するためのルールの一つです。
葬儀だけでなく、さまざまな社会のルールがなおざりにされています。
かといって、いままでのルールが壊れて新しい社会のルールができたとも思えないのですが。
こんなことが続くと日本の社会はどうなってしまうのでしょう。
宗教的立場だけでなく、社会的な立場から見ても心配です。
葬儀の崩壊は社会の崩壊そのものです。
おくりびとはまだ見ていませんが、良い映画だそうですね。
しかし、納棺というのも、死者を送るシステムの一部ですが、それだけが強調されて取りあげられると、また、それを商売にしておかしな方向に持っていってしまう人が出ないか心配です。
派手な演出をして、納棺を際立たせたりすると、葬儀イコール納棺だと勘違いする人が出てくるかも知れません。