時々、法事の後のお斎の時に出席された方から「日蓮宗のお経はわかりやすいね」といわれることがあります。
他宗と比べてなのか、単に読んでいる言葉の意味がわかるからなのかはわかりませんが。
日蓮宗のお経は漢文で書かれた経文を真読または訓読で読みます。
真読の場合は漢字を漢音・呉音で読み、訓読の場合は書き下し文として読んでいきます。
たとえば、日蓮宗のお経「妙法蓮華経」の中の如来寿量品第十六の自我偈の冒頭はこんな風に読みます。
文字では「自我得佛来 所経諸劫数 無量百千萬 億載阿僧祇」。
真読では「じーがーとくぶつらい しょうきょうしょーこっしゅ むーりょうひゃくせんまん おくさいあーそーぎー」。
訓読では「わーれーほとけーをーえてよーりーこのかーたー へたるーところーのーもろもろのーこっしゅー むーりょうひゃくせんまんおくさいあーそーぎなりー」となります。
日常的に漢字は漢音または呉音で発音することが多いですから、真読で聞いてもわかりますし、訓読にすればさらにわかりやすくなるのでしょう。
確かに、私も以前、他宗の葬儀の際に経文を漢音でも呉音でもない音で読まれて何を言っているのかさっぱり分からなかった覚えがあります。
法要で、何を言っているのかわからない、何を行っているのかもわからないではありがたみも湧かないし、じっと座っていること自体が苦痛に感じられるのかもしれません。
日蓮宗のお経がわかりやすいといった方も、意味がわかったからこそ、親近感もわき、参加した充実感も得られたのでしょう。
法要を行っている導師と参加した方々がともに充実感を得られることこそ、法悦といえるのかもしれません。
確かに同じお経でも、宗派によって違う読み方をすることが多いですね。
よく耳にして気がつくのは、開経偈と呼ばれるお経とひろ坊さんが指摘された四弘誓願ですね。
元々は同じ経典なのにわざわざ読み方を違えるのは差別化のためだったのでしょうか。
四弘請願(しぐせいがん)の短いお経でも全くちがった読み方をする。