2008年度が県立鶴岡西高校を卒業して30年目に当たりますので、同級会をおこないました。
当時の5つのクラスそれぞれから何人か実行委員になってもらって、昨年夏頃から準備し、1月3日(土)に開催したものです。
参加者は60名と、全体の4分の1強というところでしたが、正月中と忙しい日程にも関わらず集まってくれた方々だけに、懐かしい思い出や30年の月日を語り合って大いに盛り上がりました。
歳も歳だけに大病を患った人もあり、亡くなった人の話も出ました。
長年勤めた会社にリストラされてしまった人、町の商店を苦労して経営している人もいました。
「小泉内閣以来の政治には頭に来た!」というように、政治への怒りも聞かれました。30年振りに会った場で出てくる訳ですから、その方の怒りも強いのでしょうし、そういう話が当たり前の社会になっているという感を改めて強くしました。
あの頃、希望を抱いて社会に出ていった仲間の姿を思い出し、こんなに酷い目に遭わせた政治への怒りがますます沸いてきました。
一方、「おじいちゃん」「おばあちゃん」になってニコニコしている人がいたり、当時「悪かった」連中が誘い合って来てくれて、堅実に働いている話を聞かせてくれたりしたことは大変うれしいことでした。
「髪型」、体重、体力などがずいぶん変わってしまった話も、みんな一緒なので心から笑い合えるのが同級会の楽しいところです。
先生方も来て下さいましたが、思えば当時の先生方は今の私たちよりよっぽど年下だったのに、記憶に残る当時の姿に今でも頭が上がらないように感じられるのは不思議なことです。「恩師」と呼ぶ所以でしょう。
私は、最初に主催者あいさつをさせてもらいましたが、後はみんなと一緒に大いに楽しみ、二次会、三次会と流れていきました。
当時、好ましく思っていた女の子(今では「子」ではありません)とちゃっかり肩を組んだ写真も撮らせてもらいました。ハハハ。
ああ楽しかった。
囲碁同好会の総会に引き続きおこなわれた懇親会の中で、非常に興味深い話しを聞きました。
囲碁は、中国で生まれてから2千年以上、日本でも1300年を超える歴史を持つとされていますが、その歴史の中で「三棋聖」の一人として燦然と輝く本因坊丈和という伝説の棋士がいます。
その丈和が二十歳の時に師に命ぜられて、修行のために鶴岡で長坂猪之助という藩士と21番碁を打ったところ、長坂はほぼ互角の成績を残したというのです。
後日資料を当たってみると、確かに長坂という棋士は、全国に知られた打ち手であったようです。
関係者の方々の間では広く知られたことのようですが、鶴岡市としても、長坂について注目し、歴史的資料として整理しておくべきであろうと思いました。
短期間に流行り廃っていくテレビゲームが子ども達に時間を無為に過ごさせるものだとすれば、囲碁は、知性と感性を磨く豊かな時間を与えてくれる有為のゲームだと私は考えています。
文科省の「放課後子ども教室」の事業の中でも、子ども達の放課後を豊か(で安全)なものにしていくことが現下の大きな行政課題とされている中で、囲碁教室などは「教室」の一つとしてできる限り広げていきたいものです。
ちなみに私は二十代で日本棋院から参段の免状を受け、若い頃は県大会にも出場したりして、当時の関係者の方々からはいろいろ面倒も見て頂いたものでした。
その後、仕事が忙しくなっていったものですから、碁の方はとんと沙汰止みになってしまいましたが、まあ、人生長いのでいつか囲碁に親しめる日が来るものと信じています。

日本相撲協会は、時津風部屋の力士急死事件で、親方を解雇処分とすることを発表しました。
この問題での暴力の詳細はまだ断定できませんが、稽古とは違う暴力が振るわれたことは疑いません。マスコミ報道には信用ならないようなものもたくさんありますが、暴行があったことは容易に推測できます。
しかし更に問題なのは、その後に他の部屋でも暴力事件が明るみに出たことにとどまらず、大相撲全体に暴力が蔓延していると見られることです。
これまで大相撲の暴力事件の数多くの報道がありましたが、相撲協会がそれにまともに答えた姿は見たことがありません。
今回の事件だけについて処分するのではなく、背景になっている大相撲全体の暴力問題にメスを入れてこそ、今回の事件の意味も明らかになると思いますが、処分は、暴力の経過や内容すら明らかにすることはなく、「協会の信用を失墜させた」ので下したとされていました。
組織全体についても、事件についても、真実を解明することが何よりも大事です。
事今日に至っても「協会は世間に信用されている」と思いこんでいる姿は、病根が相当深いことを伺わせます。
権威、権力を振り回す組織には、本能的に怒りの火花が飛ぶ私としては、この問題から目が離せません。
今晩、久しぶりに「K1」を観ました。10年位前からの格闘技ブームが下火になっていますが、K1はまだなかなかの人気で、今日おこなわれた中量級のトーナメントである「K1MAX」は、テレビでもかなり前から宣伝に努めていました。(以下、K1をまったくご存じ無い方には恐縮な記事です)
人気の魔裟斗選手は初戦で強敵ブアカオー選手を下したものの、決勝戦では無念の途中棄権負けとなりました。
魔裟斗選手は、実力がある上に、かなりの男前ということから、マスコミにもしばしば登場するスター選手で、K1人気の盛り上げに大いに貢献しているようです。
近年まで「マニアの世界」と観られていた格闘技が一時のようなブーム(今は残り火ですね)となるまで、特に若者の間で人気が出た理由は、スターづくり、イベントの演出など、プロデュースが非常に巧みであったことだけではなく、「真剣勝負だ」(しかも若者の)ということが核になっているのではないかと思います。
それは、雇用や社会保障など、安心して生きていくための制度が破壊されたことによって出現した不安の時代、不信の時代にあって、「本物」であることの価値が高まったということが背景にあるのではないかと感じます。
また、激しく戦った者同士が、試合が終われば讃え合うという姿も、若者に好感を持たれるポイントかなと思います。(その辺りも、かつての「マニア」の多くとは違う感じがします。大変良いことです。)
ところで私は、中学生の頃から格闘技が好きで、一時は柔道や空手の道場に通ったりと結構「はまった」ものでしたが。それから30年以上、ボクシングやキックボクシングなど格闘技観戦は一貫した趣味の一つです。
「マニア」として言わせてもらえば、ブアカオー戦の判定が3-0というのは、あからさまな「魔裟斗贔屓」で「本物」の価値を落とすものでしたし、K1は「立ち技最強」を謳っていますが、目突きや金的以外の技(ヒジ打ち、「首相撲からのヒザ蹴り」など)を広く認めた「ムエタイ」ルールこそが立ち技最強に相応しく、その点は誇大広告となっているということです。
格闘技と言えば、「総合」の方も語らなければならないのですが、そこまで突っ込んでいくのは、このブログの目的から「リングアウト」してしまいますので、この辺で試合終了とさせて頂きます。
10日(金)におこなわれた第17回赤川花火大会を自宅前の苗津川の土手から眺めました。
思い起こせば第1回から欠かさず楽しんで来ましたが、子どもらが大きくなるにつれて、「家族で観るもの」から、「友達と観るもの」に変わってきて、長女が抜け、二女も抜け、今年は小学生の長男と両親と4人で眺めることになりました。近年まで羽黒橋の辺りまで出かけていって大きく空を仰いでいたものが、今では1kmも離れた土手の上で寝そべっての鑑賞です。
更に、半分終わったあたりで妻が長い日勤の仕事を終えて帰宅したので、私も家族を離れて数十メートル移動し、町内の皆さんのグループに合流してしまいました。
見回せば、市水道部付近から苗津川の両岸に様々なグループが思い思いの格好で観覧しています。 今年の花火は3千発ということでしたが、まだ明るい内から市内全体が花火大会に向けて動いていて、帰省した方々を含めて、夏の鶴岡に欠かせない風物詩という感じがしました。
大会を準備された関係者の方々のご苦労に感謝申し上げます。
ただ、いつから始まったのか「枡席」ということで2万円からのお金を払った人にだけ特別席が設けられるという仕組みは残念に思っています。
どうしても、年々増えている「そういうお金を払え無い人(特に子どもですね)」の気持ちを考えてしまいます。
「苦肉の策」ということだろうとお察しはしますが、この行事の目的は何かという点から、検討して頂けないものかなと思っています。
「交流」しながらの撮影なので、ちょっと美しくありません。
「ヒマなヤツ」と思われるかも知れませんが、「バンビ~ノ」最終回を観ました。
主演は松本潤。こういうアイドルが主役のドラマなど見たことが無いのですが、これは偶然にも観てしまい、感激してしまいました。
(ウチの子どもらがハマッていた、「花より男子」の何が面白いのかと思っていましたところ、「道明寺」を演じたマツジュン主演の新たなドラマが始まる、ということで観てみました)
博多から上京してイタリアンレストラン「バッカナーレ」にやってきた、世間知らずの若者:伴省吾が、プロフェッショナルの世界の壁に跳ね返され、何度も挫折して泥まみれになりながら、その都度立ち上がり、前に向かって進んで行く、そういうストーリーのドラマでした。
出演者の演技力は、ベテランを除けば失礼ながら完璧なものとは思えませんし、レストランの設定など、ややデフォルメが強いかなとも思いましたが、それもまた、ロマンに向かって不器用に突き進む若者たちのドラマであることを表現しているように受け止めることができました。
特徴として感じたことは、
仕事の厳しさ、仕事によって若者が大人に成長していくことを描いていること。
若者だけではなく、オーナーシェフ:鉄幹と伴の恩人遠藤という、若者の目標となるような完成された人物=普通であれば人生の晩期にある者たちも、ロマンを追い求め、チャレンジする存在であること。
先輩・後輩・同輩という、「仲間」が描かれていること。しかも、「運命共同体」、「組織の歯車」ではなく、一人ひとりが「自分」を大切にしながら、共通する目標を持つことによって固く結びついた「仲間」であること。
(これは、最終回で見事に描かれていました。特にこの点で「出色」のドラマと思いました。)
「恋愛」があるが、男も女も「恋愛がすべて」の存在ではなく、自立した男性と、自立した女性の関係として描かれていること。
私は、この手のドラマが近年少なくなっているのは、現実の社会が、多くの若者が若者らしい希望を持つことを困難にしているということの反映かなと思います。
多くの若者が、派遣・請負・臨時雇用として、使い捨てされる存在にされてしまっていること。
正規雇用の若者も、成果主義でバラバラにされ、子育てもままならない、いつ過労死してもおかしくない「働かされ方」にさらされていること。
テレビドラマでも、そういう現実を抉る企画が求められますが、「バンビ~ノ」は、それとは違う角度でなかなか良くできあがったドラマでした。
私自身、20代から30代にかけて、今では恥ずかしくて人には言えないような幾多の失敗を重ねてきたこと、40も過ぎて家庭への責任も重くなった時期に、議員という新たな仕事にチャレンジすることになったことなど、大変身に積まされるところがあったので、殊更感激したのかも知れません。
番組の最後の方で、イタリアの小島に遠藤と一緒に店を出した鉄幹は言いました(要約)。「開店以来、客は誰も来ない。日本人の店なんか見向きもしない。完全なアウェー。最高だ!」。
人生にはロマンがあるべきであり、人生とはロマンへのチャレンジである。そういうメッセージを受け止めました。