今日のブログも長くなってしまいました。
ごめんなさい。
でも、大事なことを書きました。
辛抱して呼んでください。
先日も葬儀の番組をやっていました。
葬儀の勉強をしましょう・・・みたいな内容です。
病院で死ぬと葬儀社がすぐにきます。
そうしたら、こう対応しましょう。
葬儀の日程は通常、死んだらその日に自宅安置
次の日が通夜、その翌日が告別式です。
葬儀の費用は全てを含むと230万くらいが平均です・・・
これは、これで勉強になるのかも知れませんが、「こういうもんです」といわれれば、「そうなんだ、そうしなきゃいけないんだ」と視聴者は思ってしまいますね。
反対に、葬式なんてお金を掛けなくてもいいんです。
こんなに安く出来ますよ。
火葬だけなら20万円ですよ。
これで十分お別れが出来るんですよ。お金を掛けるのは葬儀社の上手い話に乗っているだけですよ!
こんな番組も多いんですね。
私そう長くはないけど、死を見つめて生きていきました。
今、人の死がとても軽く扱われている気がしてなりません。
死んだら、これくらいお金がかかるのは、しょうがないと
それを納得する人も大勢いますが、今は「お金をかけすぎよ」という声が多いのも事実です。
今まで、葬儀を担ってきた葬儀社の「ぼったくり葬儀」に人々が
葬式をいらないと判断してしまったのですね。
家族の死を迎えた時、
すぐに葬式をして、故人の姿、形を一時も早く消しさることが
当たり前になっています。
そこにお金をかけることがいけないと、人々は判断を下しています。
その判断に何かが欠けているような気がしてなりません。
「お葬式にお金をかけない」
「葬式なんて必要ない」
「火葬だけすれば、それでいい」
そう思っている人たちには、テレビやマスコミから伝えられている
葬式=お金をぼったくるものだ!
という言葉だけを鵜呑みにして、そう判断しているのではないかしら?
何十年も一緒に暮らし、愛されていると感じたり
誰よりも頼りに出来ると感じたり
束縛されていると感じたり
心の中に土足で入り込まれたと感じたり
でも苦しいときに、そっと手助けしてくれたり
愛しい、と嫌いの繰り返しであっても絆が切れないのが、家族です。
その人が死んで、もうどんな接点も持てないとわかったとき
愛も、嫌悪も含めて思い返しながら別れて欲しいと思うのです。
お葬式の準備をしながら
「どんな人だったのか?」
「何をしてもらったのか?」
「どんな迷惑を受けたのか?」
反対に
「どんなに迷惑かけたのか?」
そんな事を思い出して欲しいのです。
遺影写真を探す・・・・これは重要な行為です。
忘れていた故人との気持ちの関わりを鮮明に思い出させてくれるのが写真です。
たんすの中の洋服も、いつも持っていた愛用品も・・・
みんな、故人との別れを鮮明にするものです。
その時間が欲しい。
そしてその中『最後にこうしてあげたい!』と言う思いが出るのは当たり前のことなのです。
それがお金がかかることでも「そうしてあげたい」と思ったらきっとするでしょう。
そのお金の掛け方は、悪いことではないのです。
お金がかかるか、かからないかではないはず。
自分達が亡くなった家族にしてあげたい!気持ちが大事。
でも、今の風潮は、家族が亡くなれば
「火葬だけすればよい」と
それで十分だ、お金など掛ける必要はない、と。
簡素、という意味も、
家族を送る、という意味も勘違いしています。
【故人との関わりを思い起こした中で
そうしたいと思うことさえ、気付かせてあげられない】
今の風潮が、私は悲しいと思うのです。
家族の死を、真剣に考える機会のない人々が大半で
その人たちを受け入れて葬儀をすすめるのが葬儀社です。
その葬儀社がただ、高い・安い だけでけしか
葬式の話が出来ないなんて・・・・
本当に葬儀を担う者として意識がなさ過ぎます。
葬式宗教も同じ目線で判断されてます。
お布施が高い?だからお寺はいらない・・・ではないはず。
お布施の問題は金額だけをこだわりすぎで
金額を提示しているお寺のほうが少ないのではないでしょうか?
無理せずに、でもこんなに良くしてもらったら
「このくらいは包まないと」言うのが本来でしょう。
お布施を先に払う必要もないと思うけど。
私が「この方、お寺さんの言葉で救われている」とか
「仏壇の前の念仏にすがっている」なんて場面は多く見てきました。
そんなことを話してあげられる葬儀スタッフが少なすぎなのです。
葬儀社の役目は、
葬儀の何たるか、を教えて差し上げるのも大事なことなのです。
お客様のニーズは、私たちが提供する物から
生まれて来る、だから本当に家族を亡くした人の為になる物を提供しないといけない。
その物がどんな風に役にたつのかを教えないと。
最近の葬儀を報道しているテレビを見て、
葬儀社の役目を、つくづく思うのです。
ごめんなさい。
でも、大事なことを書きました。
辛抱して呼んでください。
先日も葬儀の番組をやっていました。
葬儀の勉強をしましょう・・・みたいな内容です。
病院で死ぬと葬儀社がすぐにきます。
そうしたら、こう対応しましょう。
葬儀の日程は通常、死んだらその日に自宅安置
次の日が通夜、その翌日が告別式です。
葬儀の費用は全てを含むと230万くらいが平均です・・・
これは、これで勉強になるのかも知れませんが、「こういうもんです」といわれれば、「そうなんだ、そうしなきゃいけないんだ」と視聴者は思ってしまいますね。
反対に、葬式なんてお金を掛けなくてもいいんです。
こんなに安く出来ますよ。
火葬だけなら20万円ですよ。
これで十分お別れが出来るんですよ。お金を掛けるのは葬儀社の上手い話に乗っているだけですよ!
こんな番組も多いんですね。
私そう長くはないけど、死を見つめて生きていきました。
今、人の死がとても軽く扱われている気がしてなりません。
死んだら、これくらいお金がかかるのは、しょうがないと
それを納得する人も大勢いますが、今は「お金をかけすぎよ」という声が多いのも事実です。
今まで、葬儀を担ってきた葬儀社の「ぼったくり葬儀」に人々が
葬式をいらないと判断してしまったのですね。
家族の死を迎えた時、
すぐに葬式をして、故人の姿、形を一時も早く消しさることが
当たり前になっています。
そこにお金をかけることがいけないと、人々は判断を下しています。
その判断に何かが欠けているような気がしてなりません。
「お葬式にお金をかけない」
「葬式なんて必要ない」
「火葬だけすれば、それでいい」
そう思っている人たちには、テレビやマスコミから伝えられている
葬式=お金をぼったくるものだ!
という言葉だけを鵜呑みにして、そう判断しているのではないかしら?
何十年も一緒に暮らし、愛されていると感じたり
誰よりも頼りに出来ると感じたり
束縛されていると感じたり
心の中に土足で入り込まれたと感じたり
でも苦しいときに、そっと手助けしてくれたり
愛しい、と嫌いの繰り返しであっても絆が切れないのが、家族です。
その人が死んで、もうどんな接点も持てないとわかったとき
愛も、嫌悪も含めて思い返しながら別れて欲しいと思うのです。
お葬式の準備をしながら
「どんな人だったのか?」
「何をしてもらったのか?」
「どんな迷惑を受けたのか?」
反対に
「どんなに迷惑かけたのか?」
そんな事を思い出して欲しいのです。
遺影写真を探す・・・・これは重要な行為です。
忘れていた故人との気持ちの関わりを鮮明に思い出させてくれるのが写真です。
たんすの中の洋服も、いつも持っていた愛用品も・・・
みんな、故人との別れを鮮明にするものです。
その時間が欲しい。
そしてその中『最後にこうしてあげたい!』と言う思いが出るのは当たり前のことなのです。
それがお金がかかることでも「そうしてあげたい」と思ったらきっとするでしょう。
そのお金の掛け方は、悪いことではないのです。
お金がかかるか、かからないかではないはず。
自分達が亡くなった家族にしてあげたい!気持ちが大事。
でも、今の風潮は、家族が亡くなれば
「火葬だけすればよい」と
それで十分だ、お金など掛ける必要はない、と。
簡素、という意味も、
家族を送る、という意味も勘違いしています。
【故人との関わりを思い起こした中で
そうしたいと思うことさえ、気付かせてあげられない】
今の風潮が、私は悲しいと思うのです。
家族の死を、真剣に考える機会のない人々が大半で
その人たちを受け入れて葬儀をすすめるのが葬儀社です。
その葬儀社がただ、高い・安い だけでけしか
葬式の話が出来ないなんて・・・・
本当に葬儀を担う者として意識がなさ過ぎます。
葬式宗教も同じ目線で判断されてます。
お布施が高い?だからお寺はいらない・・・ではないはず。
お布施の問題は金額だけをこだわりすぎで
金額を提示しているお寺のほうが少ないのではないでしょうか?
無理せずに、でもこんなに良くしてもらったら
「このくらいは包まないと」言うのが本来でしょう。
お布施を先に払う必要もないと思うけど。
私が「この方、お寺さんの言葉で救われている」とか
「仏壇の前の念仏にすがっている」なんて場面は多く見てきました。
そんなことを話してあげられる葬儀スタッフが少なすぎなのです。
葬儀社の役目は、
葬儀の何たるか、を教えて差し上げるのも大事なことなのです。
お客様のニーズは、私たちが提供する物から
生まれて来る、だから本当に家族を亡くした人の為になる物を提供しないといけない。
その物がどんな風に役にたつのかを教えないと。
最近の葬儀を報道しているテレビを見て、
葬儀社の役目を、つくづく思うのです。