子供の頃から大叔母の事を我が家では
”田舎のおばちゃん”と呼んでた。
母方の大叔母(祖父の弟の妻)になるのだが早くに祖父と祖母が亡くなったので
大叔父と大叔母が私たちの祖父、祖母でした。
大阪市内に住んで堺市の事を田舎っと言うのは可笑しいと気が付いたのは
だいぶ大きくなってからの事で、田舎のある友人が羨ましく、
私も休みは田舎に帰る!と胸を張って言ってた気がする。
夏休み、冬休み、春休みの大半を百舌鳥の家で過ごしました。
子供の考えの無さで、遊びに行きながら
毎日退屈や~。退屈や~~っと言ったり
水洗になってないトイレが怖い、床の間の人形が怖い、昔ながらのお風呂が怖い、とはよく言ったもんだ。
寝坊しても誰にも怒られず、毎日美味しいものをいっぱい食べて
昼は神社や墓地や御陵(仁徳天皇以外に小さい御陵がいっぱいある)を探検して
レンゲや土筆を摘んだり、小川でザリガニやオタマジャクシを採ったり
自然がいっぱいあって、町中に育った私たちにはまさにすべてが田舎。
遊びに気を取られ遠くの隣町まで行ってしまい 探されて怒られた事もあった。
夜は会社務めと大学生だったお姉ちゃん、お兄ちゃんがお土産を買って来てくれたり、遊んでくれまさに天国だった。
この土地を田舎と言う私たちと反対に
村の親戚・知り合い達は私たちの事を大阪の子と呼んでた。
大叔母と一緒に村を歩いてると、『大阪の子もーて(帰って)きとんやな~~』 と声かけられる。
大叔母は、その返事に 『この子らもーて来たらおとろしい(おそろしい)、おとろし。』って言うてました。
冗談なのか本気なのか・・・(笑)
家の玄関は常に解放されていて、普段でも誰かしら人の出入りがあって
祭りや法事は特に賑やかで近所の中心みたいな家でした。
大叔母の存在が近所や親戚ではゴットマザーみたいで、いろんことに采配をふるって
恐れられた存在だと気が付いたのは私がもっと大人になってから・・
子供の私たちにはいつも優しい存在。
ズバズバと言う事が面白くセンスがあって、
用事する傍でいろんな話を聞くのが大好きでした。
大叔母の堺弁、百舌鳥弁が面白くて、よく真似しました。
あの言葉が私たちの田舎の言葉。
百舌鳥の家の居心地の良さは今でも私の大切な思い出です。
特に夏が来たら思い出します。
あの自由に解放されてのびのびした夏の日々。
10月に姉がNYから帰国して大叔母を訪ねる時
私はいつでも会える!っと電話で話しただけでした。
大叔母はきっと100歳までも生きると信じ切ってました。
その時の様子を後で聞いたら、とても元気で”NY行きたい”っとも言ったそうです。
だから突然の報せを受けて愕然としました。
あの時帰れなかったのだけが今でも心残りです。
お別れをした時の顔は綺麗で本当に安らかな顔でした。
大叔母の孫やひ孫が最後まで傍にいてくれてよかった。
久しぶりに集まった親戚たち。
普段頻繁に会ってなくても血の繋がりってとても不思議だ。
大叔母が集めてくれたのだな。
自分のルーツを強く感じるあの家とあの土地に
今でも大叔母がいる様な気がしてなりません。
天国からたまにはビシっと喝を入れて欲しいです。
心から大叔母の冥福を祈ります。
”田舎のおばちゃん”と呼んでた。
母方の大叔母(祖父の弟の妻)になるのだが早くに祖父と祖母が亡くなったので
大叔父と大叔母が私たちの祖父、祖母でした。
大阪市内に住んで堺市の事を田舎っと言うのは可笑しいと気が付いたのは
だいぶ大きくなってからの事で、田舎のある友人が羨ましく、
私も休みは田舎に帰る!と胸を張って言ってた気がする。
夏休み、冬休み、春休みの大半を百舌鳥の家で過ごしました。
子供の考えの無さで、遊びに行きながら
毎日退屈や~。退屈や~~っと言ったり
水洗になってないトイレが怖い、床の間の人形が怖い、昔ながらのお風呂が怖い、とはよく言ったもんだ。
寝坊しても誰にも怒られず、毎日美味しいものをいっぱい食べて
昼は神社や墓地や御陵(仁徳天皇以外に小さい御陵がいっぱいある)を探検して
レンゲや土筆を摘んだり、小川でザリガニやオタマジャクシを採ったり
自然がいっぱいあって、町中に育った私たちにはまさにすべてが田舎。
遊びに気を取られ遠くの隣町まで行ってしまい 探されて怒られた事もあった。
夜は会社務めと大学生だったお姉ちゃん、お兄ちゃんがお土産を買って来てくれたり、遊んでくれまさに天国だった。
この土地を田舎と言う私たちと反対に
村の親戚・知り合い達は私たちの事を大阪の子と呼んでた。
大叔母と一緒に村を歩いてると、『大阪の子もーて(帰って)きとんやな~~』 と声かけられる。
大叔母は、その返事に 『この子らもーて来たらおとろしい(おそろしい)、おとろし。』って言うてました。
冗談なのか本気なのか・・・(笑)
家の玄関は常に解放されていて、普段でも誰かしら人の出入りがあって
祭りや法事は特に賑やかで近所の中心みたいな家でした。
大叔母の存在が近所や親戚ではゴットマザーみたいで、いろんことに采配をふるって
恐れられた存在だと気が付いたのは私がもっと大人になってから・・
子供の私たちにはいつも優しい存在。
ズバズバと言う事が面白くセンスがあって、
用事する傍でいろんな話を聞くのが大好きでした。
大叔母の堺弁、百舌鳥弁が面白くて、よく真似しました。
あの言葉が私たちの田舎の言葉。
百舌鳥の家の居心地の良さは今でも私の大切な思い出です。
特に夏が来たら思い出します。
あの自由に解放されてのびのびした夏の日々。
10月に姉がNYから帰国して大叔母を訪ねる時
私はいつでも会える!っと電話で話しただけでした。
大叔母はきっと100歳までも生きると信じ切ってました。
その時の様子を後で聞いたら、とても元気で”NY行きたい”っとも言ったそうです。
だから突然の報せを受けて愕然としました。
あの時帰れなかったのだけが今でも心残りです。
お別れをした時の顔は綺麗で本当に安らかな顔でした。
大叔母の孫やひ孫が最後まで傍にいてくれてよかった。
久しぶりに集まった親戚たち。
普段頻繁に会ってなくても血の繋がりってとても不思議だ。
大叔母が集めてくれたのだな。
自分のルーツを強く感じるあの家とあの土地に
今でも大叔母がいる様な気がしてなりません。
天国からたまにはビシっと喝を入れて欲しいです。
心から大叔母の冥福を祈ります。
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