初代藤原清衡 ~1128年 陸奥の豪族 藤原経清の子、前九年戦で父敗死、後三年戦で一人生き残る。藤原の遺領継ぎ、平泉へ
奥州に仏教を広める。
清衡は、20年余り費して「中尊寺」を建てる。現在はその一部。当時の関白藤原師実で、馬、砂金、等を贈り、荘園を手にしたと思われる。
岩手平泉「毛越寺」
850年慈覚大師が東北巡遊時、この地で霧に覆われ一歩も前に進めなくなり困っていると、足元に白鹿の毛が落ちており、大師は、不思議に思い、
その毛をたどると、前方に白鹿がうずくまっていた、大師は近寄ると、白鹿は姿をかき消し、何処ともなく白鬚の老人が現れ、
この地に堂宇を建て霊場にせよとつげた。大師は、この老人こそ薬師如来の化身と感じ、一字の堂を建てた。「白鹿伝説」より
「慈覚大師円仁」 円仁は、794年、下野国都賀郡(栃木県下都賀郡)の豪族・壬生氏に生まれ、9歳から都賀郡小野の大慈寺の住職広智について修行を積み
、808年、15歳で比叡山に登って伝教大師最澄の弟子となった。
838年、遣唐船で唐に渡り、山東省の赤山法華院や福建省の開元寺、中国仏教三大霊山に数えられる五台山で修行し、847年、に帰国。
長安滞在中、唐の十五代皇帝武宗の仏教排斥にあい苦渋を強いられた。
出島と池中立石 荒磯の風情を表現しており飛島には2.5mの立石が据えられている。3.11の地震で倒れ工事中。
広大な境内には、大泉が池を中心に浄土庭園が配されている。宝物館、芭蕉夏草の句碑(夏草や 兵どもが 夢の跡)本尊薬師如来(平安)
月光両菩薩ヲ安置する本堂、二つの橋が架かる大泉ヶ池、開山堂、嘉祥寺、経楼跡、鐘楼跡、道水「作庭記」に記されている技法、洲浜、寺の象徴庭園。
芭蕉の句碑
世界遺産特別史跡、特別名勝のこの寺は、奥州藤原氏二代基衡、三代秀衡が造営で、加羅は、中尊寺を凌いでいた規模で
「吾が朝無双」と称された。毎年5月の「曲水の宴」、中世芸能「延年」など古式ゆかしく行われている。
本堂 雷で裂けた神木
廻廊の基壇、礎石、土塁、等は、平安の伽藍様式を知る上で貴重な遺構として保存されている。全体の背景は、自然を象徴し、
仏の荘厳を造り出している。
常行堂
高館は、「毛越寺から20分歩く」 判官館ともいい、北上川や東稲山が望め、源義経公はここで自害したと伝わる。義経尊像が祀られている。
花の寺とも言われ、境内には、梅、桜、花菖蒲、蓮、萩、紅葉、草木が多く、四季折々の風情を楽しめる。
平安のみちのくに華開いた奥州藤原文化と栄華。
前九年戦、後三年戦、初代藤原清衡が、敵味方区別せず「積みなく犠牲になった霊が安らかな浄土に・・。」と願い、仏教文化を築いた。
また、義経が、弁慶が・・。松尾芭蕉が涙した歴史の地、三回目の観光であるがこれが最後であろう・・・。
開山堂