syuの日記・気まま旅

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山寺 (1)

2011-10-25 | 気まま旅
山形「山寺村」に入る、立谷川と紅葉川合流部に位置し、立石寺の門前町として発達し、宮城県名取郡に通ずる二口越えの口留番所が
おかれた宝珠山一帯は凝灰岩の風化した奇岩が多い。特異な景観をし、「名勝・史跡」に指定されている。
蔵王国定公園の一部で、寺と対岸に芭蕉記念館がある。

山寺「立石寺」は、天台宗、山号宝珠山。奇岩怪石から岩山寺、一山を山寺と総称。
860年慈覚大師(円仁)の開基と云う。開山と共に比叡山延暦寺の法燈を受け継ぐ羽州随一の霊場として信仰を集めている。
1689年松尾芭蕉が行脚で訪れている。「しずかさや 岩にしみいる 蝉の声」はここで詠んだ句。

立石寺仁王門 根本中堂・念仏堂のある麓から~奥の院まで1100段の石段。



「円仁の入定窟」慈覚大師の遺骸を安置すると伝える入定窟がある。
史実としては、円仁は864年、比叡山で没しており、立石寺に実際に遺骸が移されたという確証はないが、
入定窟の上に立てられた1144年の「如法経所碑」が現存し、そこには「大師の護持を仰いで法華経を埋納する」という趣旨のことが書かれている。
この時代(12世紀)、すでに円仁がこの地で入定しているとする伝承が成立していたことがわかる。

昭和23年から翌年にかけて入定窟の学術調査が実施され、金箔押しの木棺と人骨5体分、円仁像と思われる頭部のみの木彫像などが発見された。
この木彫像の頭部については、目鼻立ちなどの特色から円仁像であることは認められ、作風からも9世紀頃の制作であると認められている。

  


比叡山焼き討ちの際に、延暦寺から分燈されていた法燈も消滅し、再度、分燈することとなるが、1571年の比叡山焼き討ち後の再建時には、
立石寺側から逆に分燈されることとなった。

立石寺は山形城主であった最上家(斯波兼頼を祖とする)と関係が深く、同家の庇護を受けていた。
最上義守の母・春還芳公尼は荒廃した堂宇の再興に努め、その孫(最上義守の子)にあたる最上義光も立石寺を援助した。
義光の時代の分限帳によれば、立石寺には寺領1,300石が与えられている。

  


「重要文化財」立石寺中堂(根本中堂)、建造物、天養元年如法経所碑考古資料、立石寺三重小塔建造物、
木造薬師如来坐像彫刻、木造慈覚大師頭部・木棺彫刻。
 
  

    

次回山寺の続きです。