「上山」古くは神山、上の山形、昭和29年上山に。1697年松平信通の城下町、羽州街道の宿場街で温泉場、高松、葉山、河崎などで上山温泉郷を形成。
蔵王観光の基地でもある。
春雨庵は、配流された沢庵禅宗の庵がある。上山温泉は、15世紀に発見されている。60~70度食塩石膏泉、神経痛、婦人病など。
「上山城」
天童氏(最上氏庶流)の一門「上山氏」が城を持っていた。
1508年に伊達氏がこの城を攻め落とし、城主上山義房は滅亡。伊達家臣 小簗川貞範がこの地に入った。
その後、上山義房の子武衛義忠が城を奪還。義忠によって改めて築城された平山城が現在の上山城である。
明新館跡 月岡公園 上山城

「4軒の武家屋敷と明新館跡が並ぶ通り。通称『上山藩武家屋敷通り』」
上山城近くにある学問所と武家屋敷、上山城から徒歩2分くらいの場所には武家屋敷通りがあり、明新館の跡と4軒の武家屋敷がある。
明新館とは今で言う学校のことで、1809年 に当時の上山藩松平信行が儒学を重んじ、家臣に命じて学問所を建設したのが始まりで、
1840年に藩主松平信宝の代に独立学舎を新築して、幕府儒官林大学頭の命名により、『明新館』と改名した。
「武家屋敷」は、現在も一族の者と思われる方が居住していてるので、勝手に庭先や中には入らない。上山かかし祭りのイベント時期に、
武家屋敷の庭園を覗ける。
城跡から見た上山温泉街

芭蕉の石碑
「月岡神社」
創建は明治11年(1878)に上山城本丸に社殿が建てられたのが始まり。
祭神は最期の藩主となった藤井松平家の始祖である利長公、2代目で家祖となった信一公で、藩政時代は同様に本丸に東照宮があり2神を
祀っていたが、明治4年に廃藩置県になると松平家は東京の方に移り住み、東照宮も共に奉遷されたので2神の御霊は一旦日枝神社に遷座し、
月岡神社の社殿が落成すると同社殿に奉遷座した。
例祭で奉楽される鼓笛楽は、江戸時代から伝わる貴重な存在として上山市無形文化財に指定されています。
「武家屋敷」
横一列に武家屋敷が並んでいる所は、全国的にそう多くはない、屋根が藁作りな部分と、木造建築の作りが武家屋敷独特の雰囲気を感じさせる。
武家屋敷や城の年間の維持費は、大変らしい。庭の手入れも行き届き、上山藩の歴史の重みを感じる所でした。

次回は赤湯から米沢へ
蔵王観光の基地でもある。
春雨庵は、配流された沢庵禅宗の庵がある。上山温泉は、15世紀に発見されている。60~70度食塩石膏泉、神経痛、婦人病など。
「上山城」
天童氏(最上氏庶流)の一門「上山氏」が城を持っていた。
1508年に伊達氏がこの城を攻め落とし、城主上山義房は滅亡。伊達家臣 小簗川貞範がこの地に入った。
その後、上山義房の子武衛義忠が城を奪還。義忠によって改めて築城された平山城が現在の上山城である。
明新館跡 月岡公園 上山城



「4軒の武家屋敷と明新館跡が並ぶ通り。通称『上山藩武家屋敷通り』」
上山城近くにある学問所と武家屋敷、上山城から徒歩2分くらいの場所には武家屋敷通りがあり、明新館の跡と4軒の武家屋敷がある。
明新館とは今で言う学校のことで、1809年 に当時の上山藩松平信行が儒学を重んじ、家臣に命じて学問所を建設したのが始まりで、
1840年に藩主松平信宝の代に独立学舎を新築して、幕府儒官林大学頭の命名により、『明新館』と改名した。
「武家屋敷」は、現在も一族の者と思われる方が居住していてるので、勝手に庭先や中には入らない。上山かかし祭りのイベント時期に、
武家屋敷の庭園を覗ける。
城跡から見た上山温泉街

芭蕉の石碑


「月岡神社」
創建は明治11年(1878)に上山城本丸に社殿が建てられたのが始まり。
祭神は最期の藩主となった藤井松平家の始祖である利長公、2代目で家祖となった信一公で、藩政時代は同様に本丸に東照宮があり2神を
祀っていたが、明治4年に廃藩置県になると松平家は東京の方に移り住み、東照宮も共に奉遷されたので2神の御霊は一旦日枝神社に遷座し、
月岡神社の社殿が落成すると同社殿に奉遷座した。
例祭で奉楽される鼓笛楽は、江戸時代から伝わる貴重な存在として上山市無形文化財に指定されています。


「武家屋敷」
横一列に武家屋敷が並んでいる所は、全国的にそう多くはない、屋根が藁作りな部分と、木造建築の作りが武家屋敷独特の雰囲気を感じさせる。
武家屋敷や城の年間の維持費は、大変らしい。庭の手入れも行き届き、上山藩の歴史の重みを感じる所でした。





次回は赤湯から米沢へ