「大倉ダム」建設する計画は、宮城県と仙台市が別個に進め、県が大倉ダム案を、市が定義ダム案をおして対立した。
結局、県の案が採用され1958年に工事が始まった。水没地の住民は一時反対運動を起こしたが、結局立ち退かされた。
大倉ダムは1961年に完成した。
農業用水、工業用水、水力発電にも用いられる多目的ダムだが、主たる目的は仙台への水道水の供給である。
ダムによって家屋58戸と田畑68ヘクタールが水没した。
江戸時代の大倉村では馬の飼育が盛んで、農耕用だけでなく運搬用の馬をも産した。安永3年の『安永風土記書上』によれば、
大倉村には人家72軒に対して馬が157頭いた。
明治時代に農耕馬と軍馬の需要が高まると、大倉村では仔馬を盛んに飼育して売った。
第2次世界大戦後に軍馬需要がなくなり、機械化が進むと、馬は激減し、かわって牛が飼育されるようになった。
かつては豊富な山林資源による林業が盛んであった。青下川では大正末期まで、大倉川では昭和初期まで、
切り出した材木を川に流して下流に輸送する流木が行われた。また薪炭も重要で、馬に荷を積み、山道をたどって仙台に送り出した。
明治時代からは木炭の生産が盛んであった。
「定義如来・西方寺」へ。 浄土宗の寺院。山号 は極楽山。本尊は阿弥陀。
仙台市の西方にあり、大倉ダムの奥、山中にある。ご本尊に阿弥陀如来像を祀っている。
古くから縁結び・子授け・安産にご利益があることで知られ、古来より一生に一度の願いであれば必ず叶うといわれて
参拝客が絶えることがない。
「西方寺」は、肥後守・平貞能が、壇ノ浦の戦い後に当地に隠れ住んだとされる平家落人伝説が残る。
貞能が安徳天皇と平氏一門の冥福を祈って阿弥陀如来を安置し、また改名して「定義」と名乗った。
御廟(貞能堂) 立派な山門。仁王様もにらみを利かせている、 山門から貞能堂への参道
緑も綺麗な五重塔 色んな角度から楽しめる。 境内は広い、 今の季節ゆっくり散策出来た。
100万都市仙台からわずかな距離だが、深い森と清流に恵まれた「西方寺」でした。
次回は作並ニッカウヰスキーへ
結局、県の案が採用され1958年に工事が始まった。水没地の住民は一時反対運動を起こしたが、結局立ち退かされた。
大倉ダムは1961年に完成した。
農業用水、工業用水、水力発電にも用いられる多目的ダムだが、主たる目的は仙台への水道水の供給である。
ダムによって家屋58戸と田畑68ヘクタールが水没した。
江戸時代の大倉村では馬の飼育が盛んで、農耕用だけでなく運搬用の馬をも産した。安永3年の『安永風土記書上』によれば、
大倉村には人家72軒に対して馬が157頭いた。
明治時代に農耕馬と軍馬の需要が高まると、大倉村では仔馬を盛んに飼育して売った。
第2次世界大戦後に軍馬需要がなくなり、機械化が進むと、馬は激減し、かわって牛が飼育されるようになった。
かつては豊富な山林資源による林業が盛んであった。青下川では大正末期まで、大倉川では昭和初期まで、
切り出した材木を川に流して下流に輸送する流木が行われた。また薪炭も重要で、馬に荷を積み、山道をたどって仙台に送り出した。
明治時代からは木炭の生産が盛んであった。
「定義如来・西方寺」へ。 浄土宗の寺院。山号 は極楽山。本尊は阿弥陀。
仙台市の西方にあり、大倉ダムの奥、山中にある。ご本尊に阿弥陀如来像を祀っている。
古くから縁結び・子授け・安産にご利益があることで知られ、古来より一生に一度の願いであれば必ず叶うといわれて
参拝客が絶えることがない。
「西方寺」は、肥後守・平貞能が、壇ノ浦の戦い後に当地に隠れ住んだとされる平家落人伝説が残る。
貞能が安徳天皇と平氏一門の冥福を祈って阿弥陀如来を安置し、また改名して「定義」と名乗った。
御廟(貞能堂) 立派な山門。仁王様もにらみを利かせている、 山門から貞能堂への参道
緑も綺麗な五重塔 色んな角度から楽しめる。 境内は広い、 今の季節ゆっくり散策出来た。
100万都市仙台からわずかな距離だが、深い森と清流に恵まれた「西方寺」でした。
次回は作並ニッカウヰスキーへ