「山寺・立石寺」の
中世鎌倉時代は、幕府の保護と統制を受け、関東御祈祷所となり寺は栄えたが後に兵火により焼失し、13世紀中頃には幕府の政策により
禅宗に改宗となったが、1356年 斯波兼頼が羽州探題として山形に入部した後、兼頼により再建され天台宗に戻った。
1521年、寺は天童頼長の兵火を受けて一山焼失した。天童頼長は斯波兼頼の孫の斯波(天童)頼直を祖とする天童家の末裔である。
1520年、頼長は山形盆地に進出した伊達稙宗と戦うが、この際立石寺が伊達側に加勢したために、頼長の怒りを買い、
翌年焼き討ちを受けたものである。現存する立石寺中堂は後世の改造が多いものの室町時代中期の建物とされている。
五大堂から見る天童市方面
崖の上にある納経堂
観明院 百丈岩
仁王門
五大堂は立石寺を開いた慈覚大師のお堂で、大師の木造の尊像が安置されており、朝夕、食飯と香を供えている。
向かって左、岩の上の赤い小さな堂は、写経を納める納経堂で、山内で最も古い建物である。県指定文化財で、昭和62年に解体修理がおこなわれた。
その真下に、貞観6年(864)歿の慈覚大師が眠る入定窟がある。頭上の建物は五大堂といい、五大明王を祀って天下泰平を祈る道場で、
山寺随一の展望台でもある。
開山堂 五大堂
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