「石橋山の戦い」
1180年、相模国石橋山(小田原市南西部)で、平氏方の大庭景親らが源頼朝の軍を破った戦闘である。
伊豆北条に挙兵し、同国目代の山木兼隆を討った頼朝は、ついで三浦氏の軍との合流を望み相模に進出、石橋山に布陣した。
大庭景親勢がこれを強襲、伊東祐親も背後をうかがった。
三浦の大軍との合流を阻止された頼朝勢は大敗したが、飯田家義、梶原景時など、景親の手に属しながらも内応する者があり、彼らの計らいで絶命の危機を逃れた頼朝は、箱根山中を経て土肥郷(湯河原町、真鶴町)に脱出、28日には真鶴岬から海上を安房(千葉県)に渡り、再挙を図ることになる。
石橋山の戦い、平安時代末期の1180年に源頼朝と大庭景親ら平氏方との間で行われた戦い。
治承・寿永の乱と呼ばれる諸戦役のひとつ。源頼朝は以仁王の令旨を奉じて挙兵。伊豆国目代山木兼隆を襲撃して殺害するが、続く石橋山の戦いで大敗を喫した。敗走した頼朝は山中に逃げ込み、船で安房国へ落ち延びてこの地で再挙することになる。
石橋山の戦い、石橋山は、小田原ー早川ー「石橋(山)」ー根府川ー真鶴の相模湾海沿いの国道一号線にある。
ここ石橋山と思われるが、国道往来激しく車が止められなかった。
「源頼朝」 1147-99 武家政治、鎌倉幕府初代将軍、源義朝の嫡男、母は、熱田大宮司藤原季範の娘、平清盛に敗れた父義朝は殺され、頼朝は、伊豆へ流された。以降20年流人生活、以仁王の令旨を受け挙兵、伊豆の山木兼隆を討つが、大庭景親に敗れ「石橋山」から房総ヘ逃れる。立て直して鎌倉へ「富士川の戦い」で、平家を敗走させた。常陸佐竹氏を破り関東を固める。
後白河院より関東支配権獲得、挙兵以来10年の間、木曾義仲、平家を滅亡させた。
弟義経謀反で、義経を匿う奥州藤原氏を共に討ち、全国支配を成し遂げ、征夷大将軍となった。
「北条政子」は、1157年 -1225年、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性で、源頼朝の正室。
伊豆国の豪族、北条時政の長女。子は頼家、実朝、大姫、三幡。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局、時子などいる。
伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所と呼ばれる。夫の死後に落飾して尼御台と呼ばれた。
頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。
「政子」の名は、1218年に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名されたもの。
伊豆山神社本殿
政子、 1156-1225 尼将軍、北条氏権力拡大を図る。二男実朝を将軍にし幕政に参画し、北条義時二代執権に。
政子の名スピーチ。皆の者よ、心を一つにしてお聞き。これが最後の言葉になるよ。
故右大将軍が朝敵を滅ぼし、関東を草創して以来、お前たちに与えられた官位や俸禄、それらに対するご恩は、山より高く、海より深いものだろう。
その恩に報いたいという志の深さ、察するに余りある。しかるに、逆臣の汚名を着せられた今、名を惜しむ者は早く秀康、胤義らを討ち取り、三代将軍のご恩に報いよ。・・・このように申してもなお、院中に参じたいと欲する者は、今ここで、その決意を示すことだ。
私を殺し鎌倉を焼きつくしてから、都へ赴くがいい。現代語訳
本殿の見事な彫刻の数々
伊豆山神社は、伊豆山上野地、天忍穂耳尊、 拷幡千千姫尊、 瓊瓊杵尊を祀っている。孝昭天皇治世の紀元前4~5紀頃の創建(社伝)古事記 - 日本書紀 - 風土記 - 古語拾遺に出てくる古神社、JR熱海駅の北東約1.5kmにある神社。
全国各地に点在する伊豆山神社や伊豆神社、走湯神社などの起源となった事実上の総本社格である。
石鳥居 境内から
当初は日金山の山上にあった。その後については諸説があるが、本宮山を経て、承和3年 836年に甲斐国の僧・賢安により現在地へ遷座したとの説が有力である。
若き日の頼朝と政子が逢った伊豆山神社
流人頼朝が政子と初めて会ったのは伊豆山神社近くの川に架かる逢初橋、
伝承は更に、頼朝が伊豆山の僧覚渕に師事した時に政子と逢って恋に落ちたとも伝えている。
曽我物語の記述から考えれば伊東から逃げた頼朝は最初の流刑地・蛭島のある韮山に戻っている、14歳から数年間も頼朝をを監督した北條時政の娘と伊豆山初めて会ったという。
本殿横には二人が恋を語ったと伝わる「頼朝と政子の腰掛け石」が残されている。
頼朝腰掛石は三嶋大社等にもある。
伊豆山権現は鎌倉幕府開設後も源頼朝と政子のみならず代々将軍に崇敬され最盛期には僧兵3800人を抱える勢力を誇ったが、1590年に起きた秀吉の小田原攻めで後北条側に味方したため全山が焼き払われている。
その後は江戸時代に再建、徳川家康も参拝に訪れた記録が残っている。
伊豆山神社のナギの木の葉は男女の縁結びに。
ここと、三嶋大社にもある腰かけ石
海が望める小路
頼朝は土肥から箱根権現までの山中を逃げ回り、8月になって真鶴の海岸から安房へ小舟で脱出。
この時は、主従わずかに七騎と伝わっている「七騎落ち」。
岩浦から北條時政と義時、岡崎義實、近藤七国平などが先触れのため舟で安房に向かった。
先発隊は途中の海上で三浦を落ち延びた義澄主従一行と奇跡の合流を果たしている。
今でも、真鶴漁港近くにも鵐(しとど)の窟が残っている。
追っ手から逃れた頼朝一行が隠れたと伝わっており、昔は高さ2m・奥行は10m以上もあったが崖崩れによって小さくなったらしい。
地元の伝承に拠れば、大庭景親の兵が中を確認しようとした時に「しとど」と呼ぶ小鳥が飛び出したため、誰もいないと思って見過ごしたという。
1180年石橋山で敗れ隠れた「岩窟」真鶴港波打ち寄せていたとある
「うたい坂」は、、源頼朝が石橋山の合戦に負け敗走中に、土肥実平が無事を祝い再起を願って、うたい踊ったのに由来するという。
そして、坂を下り道祖神と石碑の前を通り過ぎると、目的の岩海岸が現れる。
源頼朝は、最終的にここから船に乗り房州(千葉県)まで逃れたという。
「岩海岸」は、入江のような地形になっていて、中央部は砂浜があるものの、左側は岩場、右側は漁港になっている。
正面には、「かながわの橋100選」にも選ばれた岩大橋が架かっている。
「土肥実平」は、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)に住んで土肥を名字とした。
頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると嫡男遠平とともに参画し、以後数々の合戦に出陣、頼朝の信任篤い将となる。
富士川の合戦後に頼朝・義経兄弟が対面した際にはその取次ぎをしたことで知られている。
平家追討の戦いでは義経を補佐して功を立て、備前・備中・備後の守護職が、嫡男遠平に安芸国内の地頭職が与えられている。
土肥氏と西国との関わりはここに始まり、平家滅亡後も、かつて補佐していた義経追討や、奥州征伐などの合戦にも加わり、頼朝股肱の臣として常に第一線で活躍を続けた。
湯河原城主土肥実平は頼朝の再起を祝い踊り謡ったとある
「源頼朝船出の浜」は、石橋山の戦いに敗れ、1180年8月28日房総に船出した浜が、ここ岩海岸である。
夏は、海水浴場で賑わう。
岩海岸から千葉県房総に
これで、小田原伊豆の旅は終了します。