「三井高利」1622-94 豪商、三井家の初代、伊勢松坂、兄を訪ね江戸へ、兄死後「越後屋呉服店」開業、薄利多売、現銀掛け値なし、正札販売の新商法で大成功し、両替商で巨万の富を獲得、元禄の代表的豪商に。
当事の呉服店は、価格を付けておらず客は不便を感じていたので、越後屋商法は画期的であったのであろう。
高利は、三井財閥の基礎を築いた。
三重県中央の市、松阪その中央が本町、ここから江戸にでる。
松阪は、陸上交通網と海上「津松阪港」を有し、流通タミナール都市となっている。人、物の流通は人口規模に比べて多く、商業活動は伝統的に盛んである。木綿、紀州材、尾鷲材等の製材の加え、化学、機械のどの大手の工場が進出、工業団地も出来ている。
町中は、静かな中に活気を感じた。
京都、名古屋の観光拠点で、年々発展。
市内を流れる阪内川 商人の街並み
松阪は江戸期を通して紀州徳川家の飛び領でしたが、在住武士が少なかったためか、むしろ商人の町という印象、明治期の大火により、
一部の豪商の居宅を除いて、町屋が軒を並べる町並みも残されてい無いと云うが、城下町時代を偲ぶ町並みだった。
土塀や木塀でないところに、ほかの城下町の武家屋敷地区とは全く異なった印象を与えている。
魚町に残る豪商長谷川家などがある。蒲生氏郷は、ここに魚市場を広め、街づくりをしている。
松阪商人の館、見学できる
「松阪商人の館」は、指定文化財、江戸で紙や木綿を手びろく商いしていた豪商、小津清左衛門の邸宅。
格子と矢来のある質素な外観からすると意外なほど広い屋敷内には、二つの土蔵も残り「江戸店持伊勢商人」の暮らしぶりが偲ばれる。
旧小津家住宅 主屋、向座敷・料理場、内蔵、前蔵 附 井戸屋形および便所など、万両箱が、入館料 200円。
三井家の門
駅前商店街は残念ながら空き店舗が多い、一歩裏通りに入ると風格ある家屋が点在する。
寺も、本堂、立派な梵鐘を持つ寺がいくつもある。江戸時代以来、商人の町として栄えた松阪は豊かな民間活力が地域経済も潤した街。
財力をしのぶ、商人の街でもある。
江戸に出て大成功をおさめ三井財閥の基礎を作った三井高利が生まれ育った三井家発祥の地は、白い壁に囲まれ現存していた。
すぐ近くにはやはり江戸に出て紙問屋で財を成した小津清左衛門の邸宅もあり、こちらは「松阪商人の館」として公開。
「江戸店もち伊勢商人」の暮らしぶりがしのばれる。
庭園 人は住んでいないようであった。
松阪いけ花・花道二葉流記念碑
二葉流は松阪発生のいけばなで、記念碑が本居記念館の所に有る。
自由花とは植物の自然と出生を生かし、各自の趣味によって思い々の自己表現が出来るという。
「三井高俊」(高安の長男)は、武士を捨て伊勢国松阪で質屋、酒屋を開業し、華道の斬新な手法を生み出している。
三井高利は、六角氏の旧臣、近江南部中心に勢力の守護大名の武家で、先祖は、藤原道長という?。
二葉流の碑
「法幢山樹敬寺」は、松阪市新町にある。
法然上人が伊勢神宮に参拝された際、松ヶ島に堂塔伽藍を建立なされ、不断念仏院と称されたのが寺の起源であると言う。松ヶ島に存在したのを、蒲生氏郷が松阪城を築城した際に、移転したのであろう。
寺は浄土宗、京都知恩院の末寺。1588年創建、蒲生氏郷の松阪城下建設に伴い、松ヶ島城下より新町に移った古刹の一つ。
菩薩立像は、県指定有形文化財 (鎌倉時代)、寺の墓地は、寺の裏手、道路を挟んだ先にあった。
門楼 境内
樹敬寺は、小津家(本居家)の菩提寺で、また、村田家の菩提寺でもある。魚町宣長宅から約12分程度にある、昔は武家屋敷であったようだ。
宣長の家は代々熱心な浄土宗信者、境内には8つの塔頭があったという。
宣長の曾祖父、祖父は熱心な浄土宗信者。母の実家村田家も樹敬寺の檀家で、また実兄の察然は江戸の増上寺真乗院主を勤めた高僧である。
また、後年のことではあるが、母も信濃善光寺で剃髪、妹はんも30歳で出家し、末妹俊も夫死没後に剃髪する。このような環境下で育った宣長は、1739年、10歳の時に小石川伝通院27世主走誉上人を戒師として血脈を受け法名英笑を与えられている。
19歳の時には本山知恩院を参詣し、樹敬寺縁の通誉上人の墓に参詣している。
「赤穂義士伝」を覚え周囲の人を驚かしという。修学の中で浄土宗や樹敬寺は大きな位置を占めている。
鐘楼 本堂
原田二郎翁墓所
原田二郎は、1849年、松阪市殿町で同心(清一郎)の長男として生れ、21才のとき松阪出身の勤王志士 世古延世に随行して京都に上り、更に23才のとき維新後間のない東京に遊学して英語と医術を学んだ。
その後、大蔵省に勤め、31才で横浜の第74国立銀行(現在の横浜銀行の前身)の頭取となり手腕を発揮するが、事情があって職を辞し松阪に戻った。
その後、37才で東京に居を移して療養生活を送ったのち、1902年54才の時、明治の元勲の一人である 井上 馨 の依頼を受け、家運の傾きかけた大阪の鴻池家とその経営する鴻池銀行(後の三和銀行の前身)の整理、再建に当った。
大正8年 1919年に鴻池の建て直しに成功してその職を去ったが、翌1920年 原田二郎家を絶家のうえ全財産を拠出し、積年の計画であった原田積善会を設立。その後10年間財団の代表者として運営に当ったが、昭和5年 1930年、82才で死去した。
境内の神木
次回は、伊勢神宮へ。