syuの日記・気まま旅

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尾鷲市と九木神社

2013-03-18 | 気まま旅

「尾鷲市」は、県南部、熊野灘、東紀州の中心、古代は、志摩国に属し、中世に伊勢神宮の御厨が分布し、16世紀末新宮(和歌山県)の堀内
氏領となり、近世は紀州領土井家で早くから企業的林業経営が行われいる。尾鷲材の名で知られている。
リアス式海岸で、尾鷲湾は遠洋漁業基地、黒潮温暖多雨地帯である。
横賀町「はらそ祭り」は、捕鯨を偲んで、鯨を供養する行事がある。

天然記念の九鬼湾入口岬の斜面にある「九木神社」を参拝した。




神社の面積は、3.5HAで樹高25m前後のシイ、クスなどが鬱蒼と茂っている。
尾鷲湾は、東に開口し、奥行きやく5km、湾口の巾3km。三方を高い山に囲まれて、天然の良港として発展している。
全島を「吉野熊野国立公園」に指定。

尾鷲湾一望、織田信長、九鬼水軍。


神社は、紀伊半島国道42号から「八鬼山トンネル」を通り約8Km余りにある。八鬼山トンネルや、紀勢本線がなかった時代は、
陸の孤島のような土地であるが、戦国時代に名声を轟かせた「織田信長・九鬼水軍」のルーツがあるのが、興味深いところ。
世界遺産となった熊野古道は、九鬼町の南西にある三木里町からの八鬼山越えで尾鷲市へ通じていた。

海と隣り合わせた漁業の町
    


天満天神社・九木神社 村の住人「九鬼氏貞治」年中の兵乱に急難を免れたるにより居城の西北に「永和年中管廟」を創建し寛文二年、今の地に再建。
社内の重器に九鬼宮内少輔奉納の弓失あり寛文九年丹州綾部城主九鬼式部少輔先祖の舊縁により弓袋長刀太刀石燈篭を寄附したある。

神社境内           拝殿                     林に囲まれ
    


「花窟神社」は、主祭神、伊弉冊尊、軻遇突智尊を祀る。巨岩で知られている。
「日本書紀」に、伊弉冊尊は軻遇突智尊(軻遇突智尊は火の神である)の出産時に陰部を焼かれて死に、「紀伊国の熊野の有馬村」に埋葬され、以来近隣の住人たちは、季節の花を供えて伊弉冊尊を祭ったと記されている。
それが当地であると伝え、社名も「花を供えて祀った岩屋」ということによるもの。
一説には、伊弉冉尊を葬った地は産田神社であり、当社は火の神・軻遇突智尊の御陵であるともいう。延喜式神名帳に「花窟神社」の名はなく、神社というよりも墓所として認識されていたものとみられる。
実際、神社の位格を与えられたのは明治期。
熊野灘に面した巨岩が御神体であり、和歌山県新宮市の神倉神社とともに熊野における自然信仰(巨岩信仰・磐座信仰)の姿を今日に伝えている。


    


指定文化財は、国指定文化財、 史跡 「熊野参詣道」の一つ「花の窟」。県指定文化財、 無形民俗文化財 花の窟のお綱かけ神事。
       市指定文化財 有形民俗文化財 花の窟神社の版木・ 花の窟の湯立釜などがある。


三面は石壁                          入口の拝殿
    


尾鷲市内の「金剛寺」 馬越の津波供養塔がある。裏手の丘陵地に展開する馬越墓地入口に、「津波供養塔」有。
1707年10月の「宝永大地震津波」、犠牲  尾鷲浦の千人に及ぶといわれる人達の供養塔である。
津波の高さは10mにも達したと伝えられ、供養塔を護持し、供養している。


    

金剛寺は室町時代以前と云われている古寺で、光林寺として開創され熊野5ヶ寺に 数えられる大寺であったといわれている。
1714年に金剛寺となり、その後現在地に移ってきている。

山号 護国山、曹洞宗の寺、本尊は、十一面観音、金剛力士立像2躯は、市指定文化財 梵鐘も、市指定文化財 、光林寺縁起書 市指定文化財 、馬越の津波供養塔:市指定文化財 1713年。

書院                     本殿
  

「尾鷲神社」は、須佐之男命を祭神とする、尾鷲随一の由緒ある神社。境内には拝殿や本殿、参集殿などが立つ。


市内に鎮座
  

「尾鷲神社大楠」は、境内には樹齢1000年以上と言われている「大楠夫婦」の大クスの木がある。
歴史の香りが漂う。また毎年2月の奇祭「ヤーヤ祭り」の舞台ともなる。
楠の大木、高さ30m、周囲10m。

神木                                 拝殿
  

世界遺産「熊野古道」は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へと通じる参詣道。
5つの道、 紀伊路(渡辺津-田辺)、 小辺路(高野山-熊野三山、約70km)、 中辺路(田辺-熊野三山)、 大辺路(田辺-串本-熊野三山、約120km)、 伊勢路(伊勢神宮-熊野三山、約160km)。

「山道」が世界遺産として登録された他の例には、「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」(文化遺産、スペイン)がある。
道が世界遺産として登録されること自体はまれである。
古道の遺構の特徴として、舗装に用いられた石畳が残っていること、石畳が用いられたのは、紀伊半島が日本でも有数の降雨量の多い地域だからであるという。江戸時代に紀州藩により整備された一里塚が残っている個所もある。

世界遺産・熊野古道へ



「口有馬道標」 管理  有馬町口有馬区、  「右 くまのさん 志ゆんれい 道」とあり、上際の1角は欠落し、建立年月日の切附はない。 花の窟の西の曲がり角にあり、熊野三山、西国巡礼はここから右へ曲がって行くべしという指示。  右へ曲らず眺めの良い松林道を真っすぐいくと、行くてに志原川が、海に注ぎ、旅人は波のひきまをみては、橋って渡るので、俗に「走り湊の難所」と称し、昔のこととて橋もなく渡し舟は上流のほうにありましたが、なかには、渡し賃1文を始末せんとして、波打際の急流を渡河すべく波のひきまをみては、川に入り、折から寄せてくる高波に足をさらわれ、哀れ海の藻屑と消え去った人も多く、志原川西の平見の濱街道脇には、明治のはじめの頃14基の殉難無縁墓碑が立ち並んでいたという。
ここ花の窟の曲がり角に立つ道標は、安全道はここから右に折れて、有馬村本街道に廻るよう警告したもので、道しるべとして役立っていた。


紀宝町は、ウミガメの街で大きな海亀像が国道から見える。ウミガメの振興協組で資料を見せている。

海亀の有馬町へ
    


次回は、熊野速玉大社へ。