syuの日記・気まま旅

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日本橋の常盤橋 再び歩けるように

2013-03-30 | syu散歩

渋沢栄一像 1840-1931 実業家・王子製紙など500余りの会社設立
  

「東京駅八重洲口」も、どんどん変わる。鉄鋼ビル方面の表に出ると、もう永代通りの「日本橋本石町の呉服橋」には、びっくりした。
子供の頃、トンボ採りに出掛けていた所。

寛文年間に神田に新石町、(神田三丁目付近)が出来たので本石町と呼ばれ、石町という町名は、古くは米穀商が多く集まっていたことから穀類を数える単位の石に由来するとされる。一丁目から四丁目まであった。
江戸時代には三丁目に市中に時を告げる時の鐘が置かれ、またその近くにあった長崎屋は長崎から将軍謁見のために来る
オランダ商館長カピタンの定宿とされ、二丁目と三丁目のあいだ近くにあった十軒店には、毎年桃の節句や端午の節句になると人形の市が立ち、年の暮れには同所で破魔矢羽子板を売るなどして賑わったという。
1932年、関東大震災後の区画整理により本石町は従来からの町域を変更することになり、この時周辺にあった
金吹町、北鞘町、本革屋町、本銀町、本町、本両替町などの町域全部または一部を合併し、現在の本石町一〜四丁目となっている。なお十軒店は現日本橋室町三丁目の一部に当たる。

幕府御用達の呉服商が住んだという。いっぽう、現在の外堀通りのすぐ西を南北に延びる形で濠(外堀)があり、現在の永代通りは本交差点のすぐ西で濠をまたいでいたが、この橋は町名にちなみ呉服橋と呼ばれた。江戸時代には、橋の西詰に江戸城城門の一つである呉服橋門が設けられていた。明治時代以降は交差点のすぐ南に「呉服橋」電停があった。
戦後、瓦礫処理のために濠は埋め立てられ、その後都電路線も廃止され、交差点にのみ「呉服橋」の名を残すにいたっている。

日本橋川と高速道路と一石橋


日本橋川は、水運の便がよかったことから、江戸から近代に至るまで経済・運輸・文化の中心として栄えた。
周辺には河岸が点在し、全国から江戸・東京にやってくる商品で賑わった。
現在でも周辺に小網町・小舟町・堀留町など当時を思わせる地名が残っている。


常盤橋と並んでいる
「一石橋」は、北橋詰の本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町に御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、当時の橋が破損した際に、これらの両後藤の援助により再建された。そのため後藤の読みから「五斗」、「五斗+五斗で一石」ともじった洒落から一石橋と名付けられたと伝わる。江戸期を通して神田地区と日本橋地区を結ぶ重要な橋であったという。


この辺り常盤橋と云う一番古い橋を工事中



国史跡の「常盤橋」を修復して、再び歩けるように工事が始まった。
工事は、2013年から2年がかりという。西洋式石垣二連アーチ常盤橋は、都内で最古であるが、橋の傷みが激しく通行禁止になっていた。
昔の形を崩佐須の工事と聞いた。2年後が楽しみである。

外堀の石垣が残って居る日本橋川、江戸では一番賑わった。


「日本銀行」
日本が初めて自ら銀行を設立するのは、1872年、「国立銀行条例」によって設立された国立銀行である。
銀行設立にあたっては、1870年に当時大蔵少輔(次官)であった伊藤博文がアメリカの首都ワシントンへ銀行制度を視察した結果が反映されているという。銀行前は桜が満開であった。

古くなってきた日本銀行


小雨と桜満開の「皇居東御苑の大手門」
江戸城の本丸などがあった場所で、明治時代から戦前までは宮内庁や皇室関連の施設であった。
戦後の1960年に閣議決定により一般公開される運びになり、1963年に特別史跡に指定、1968年から一般公開されるようになった。
苑内は庭園のほか、歴史的な史跡も見ることができ、国内のみならず海外からの旅行者も多く訪れるところ。

大手門前の桜


早朝の大手門前


白鳥がのんびり、内堀



GHQ 本部のあった「旧第一生命ビル」を探したが、この地域、あまりの替り用で、後調べると現在農林中央金庫ビル・DNタワーとのこと。
昭和は遠く、寂しい。

次回は南紀白浜に戻ります。