「三重県」は、本州のほぼ中央、紀州半島の東岸に位置。伊勢湾と熊野灘に面し、鳥が海に向かって羽を広げた形で、鈴鹿山脈・四日市付近は、スキー場もあり、雪に見舞われるが、南の熊野灘は、黒潮の流れも近く温暖多雨の南海型気候区。
尾鷲市は、4000mmを超える平均年間降水量で知られている。
温暖の御浜町は、年中「ミカン」がとれる。
三重県は、14省庁の内、13までが名古屋にある出先機関の下にあって、大阪とは、関係薄い。鉄道も名古屋から私鉄近鉄とJR関西本線で
約30分で木曾三川の鉄橋を渡り、桑名では、伊勢弁、関西弁の地域。
木曾三川下流は、区別ない水郷地帯であったが、三川分流が完成し橋が架けられのは、明治に入ってから、江戸までは、東海道も「海上七里
の渡し」で、熱田、桑名まで、船旅になり、交通難所であった。明治に入って、名古屋の影響を受けて行く。
和歌山街道を右折 阪内川
「二級水系 阪内川」、延長 約21 km、水源 白猪山、河口 伊勢湾、阪内川魚道、
白猪山に源を発し、平野部を流れ大河内地区で矢津川を併せ伊勢湾にそそぐ。河口付近には松阪港がある。この川は堰がとても多く存在し、
ほとんどの水が用水路に行くため、夏には水が枯れている状態が続くことが多い。
その堰の影響で魚が川上に登れなくなったので、魚が登れるように「魚道」がいくつも作られている。
冬には冬越しのために河口にカモなどが飛来してくる。下流にはコイなどが生息し、上流ではアマゴが放流されている。
河口付近では金剛川に沿って(合流はしない)伊勢湾に注ぐ。
旧石器・縄文・弥生・古墳時代の遺蹟から、「延喜式」、垂仁朝 伊勢神宮内宮鎮座、雄略朝 外宮鎮座、672年 王申の乱で大海人皇子
伊勢国に入る、伊勢国から美濃国へ、1006年 平維衡伊勢守に任じられる、伊勢平家勢力広げる、平賀朝雅、北畠親房・・・・
1498年 安濃 津港地震で陥没、 1574年織田信長一向一揆を平定、北畠氏滅亡
1580年 織田信包 津城築城 1588年蒲生氏郷 松阪移封 松阪城築城
1644年松尾芭蕉 伊賀上野に生まれる 1798年本居宣長 「古事記伝」44巻完成。
「松阪城」跡
「蒲生氏郷」1556-95 会津若松城主 キリシタン大名 近江国日野城主 蒲生賢秀の長男 織田信長に仕え、娘冬姫を娶る。
本能寺の変で信長の一族かくまった、秀吉の臣従、小牧、長久手の戦いの功で、伊勢国松阪12万石を貰い、歴戦で会津92万石を領した。
利休七哲の一人。
氏郷は、軍律に厳しく、違反者は容赦なく処刑している。軍隊は最強と云われているが、一方「知行と情けは車両輪、鳥の羽のごとくに候」
と自身が語っており、武功のあった者には、大禄を与えている。臣下を大切にしている。40歳で急死、秀吉の毒殺説も。
松阪城跡
城内から見た街並み
城は、梯郭式平山城。松阪市の中心地の北部に位置する。阪内川が城北を流れ天然の堀となっている。江戸時代初期には松坂藩の藩庁となっていたが、廃藩後は御三家紀州藩の南伊勢国内17万9千石を統括するために城代が置かれた。
現在は石垣のみが残っており、城址公園となっている。周囲には松阪市役所、市民病院、当地出身の本居宣長記念館などがある。松阪は梶井基次郎の短編小説「城のある町にて」の舞台であるため、二の丸跡に文学碑が建てられている。
石垣が見事
1588年 氏郷は、松ヶ島は伊勢湾に面し城下町の発展性が無いと考え、現在の城地である飯高郡矢川庄の四五百森に新たに築城を開始した。工事は領内の寺社を取り壊して転用し、急ピッチで年内に完成させた。
城は東に大手、南に搦手を配し、外郭に深田堀及び水堀を巡らせた。四五百森北峰に本丸を配し、その南側に二の丸が置かれた。本丸には3重5階の天守が構えられた。城下町建設にあたり松ヶ島住人を強制的に移住させ、旧領の近江商人を町の中心部に呼び寄せて日野町とし楽市楽座を設けた。また、湊町に伊勢大湊の豪商角屋氏を呼び寄せ、これにより商都松阪の礎が築かれた。
里山と城と町が調和している。
1590年 氏郷は、小田原征伐の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て若松城に移った。代わって服部一忠が入城した。
1595年 服部一忠は、豊臣秀次事件に連座したと豊臣秀吉より叱責され自害した。
次いで古田重勝が3万4千石で入城した。
1600年 関ヶ原の戦いの軍功により徳川家康より2万石を加増され、重勝はこの年に死去し長子の重恒が幼少のため重勝の弟・重治が襲封した。
本居記念館から
江戸時代は、当地を統括する城として城代が置かれ、城内の天守以下の櫓や門等の建物は放置されていたため、江戸時代前期の史料によれば、1644年に天守が台風のため倒壊したとされ、以後は天守台のみが残ることとなった。
1794年には、二の丸に紀州藩陣屋が建てられた。
以後、紀州藩領として明治維新を迎えた。
城跡の碑がある
城跡は、北を大手、南を搦手とし、本丸・二の丸・隠居丸・季代丸・出丸・三の丸より成り、本丸・二の丸・季代丸・隠居丸・出丸には高い石垣を築き、三の丸の外郭に水堀をめぐらせていたという。
三層の天守閣と金の間・月見・太鼓等の櫓がそびえたっていたが、1644年の台風で天守閣は倒壊したと伝えられている。
また二の丸には、1794年に建立された徳川陣屋があった。明治14年(1881年)に、城跡公園となる。
裏門から城を出て、その南の「御城番屋敷」を見てまわる。
今でも番士の子孫の方々が住んでいるが、手前西側は公開されている。
東側手前には「南龍神社」と隠居丸にあった米蔵がある。西側の真ん中あたりの一件には「合資会社 苗秀社」の看板が掛かっている。
長屋の南端から西には松阪神社参道がのびていた。
御城番屋敷は、警護する紀州藩士の住居で、2棟19軒の武家屋敷である。槙垣根に囲まれている。
整然とたてられている。
城前に武家屋敷(番屋敷跡)
大手筋を市役所の1つ東側で北に入ると、左に豪商の「長谷川家」、その右手には「宣長旧宅跡」がある。
1本東側の通りに行けば、すぐ右手に「三井発祥の地」「旧・小津家」松阪商人の館」がある。
宣長旧宅跡と背中合わせになっている場所にある小間物屋さんが宣長生誕地。
よく整備された武家屋敷跡
次回は、本居宣長、鈴屋、記念館へ。