「河口湖町」は、県南、富士山北麓から御坂山地で、大石・河口・小立・船津の4村の町制、古来鎌倉街道沿いの宿駅として発展した。
江戸に入り富士講者の宿泊地となった。
現在、林業は振るわず、農業・観光で高原野菜や花卉栽培が盛ん、
「御坂峠」は、古代甲斐の国において後期国府が置かれ、東海道支路である御坂路が官道としての役割を果たした。
1577年に北条夫人は勝頼正室として嫁ぎ、暖かい小田原から、この峠を越え嫁入りしている。
1578年に越後国で上杉謙信が死去すると後継者を巡る御館の乱が発生し、勝頼も当初は、夫人の実兄である「北条氏政」の要請もあり、同じく夫人の実兄にあたる上杉景虎を支持していたが、上杉景勝方が乱を制すると勝頼は外交方針を転換して景勝と甲越同盟を結び、乱に敗れた景虎が自害に追いやられたことで甲相同盟の破綻を招いた。
甲越同盟は軍事同盟として有効に機能しなかったため、1582年には織田・徳川連合軍の甲斐侵攻を受け、河内領主の穴山信君ら一部家臣団の離反も招いた。
夫人は、勝頼のために武田家の安泰を願い、武田八幡宮に願文を奉納している。
戦況は悪化し、勝頼は相模国と接する郡内領主小山田信茂の居城の岩殿城を目指して落ち延びたが、信茂が離反すると笹子峠において織田軍に襲撃され、一行は天目山に逃れた。
3月11日に日川渓谷の天目山の近くの田野で、滝川一益の軍に発見され、勝頼らと共に自害している享年19の若さ。
「黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき 思いに消ゆる露の玉の緒」夫人の句
「小田原北条記」では、「先年、わが弟の越後三郎(景虎)危急の時、私から色々嘆願したにも関わらず、あなたはお聞き入れになりませんでした。今更命が惜しいと、何の面目があって小田原に帰れましょうか。」と最期に語り、北条家に顔向けできないと恥じ入って自害したと記している。「帰る雁 頼む疎隔の言の葉を 持ちて相模の国府に落とせよ」、南に帰っていく雁よ、長い疎遠の詫び言を小田原に運んでくれないかという、もう一句を残している。
勝頼の3女、次男、3男の母であるという説もあるが、「甲乱記」には子供はひとりもいなかったと記されている。
御坂峠 天下茶屋
御坂峠の名は、日本武尊、東国遠征の際越えた峠からきて、鎌倉御坂路ルートで重要な峠であった。
御坂山が1793m・黒岳1793m・鞍部・富士北麓の険しい峠であったであろう。
河口湖に入る最後の山道カーブに「太宰治」と関係深い「天下茶屋」がある。
「太宰治」1909-48 苦難と波乱、無頼派作家、東京帝大仏文学、作品「思い出」「晩年」「富嶽百景」「お伽草紙」戦後「斜陽」
「人間失格」未完「グッドバイ」など。 井伏鱒二・檀一雄・徳富蘇峰らと交流。
太宰治が天下茶屋に逗留するきっかけを作ったのは井伏鱒二。
創業から太宰が逗留する前までの先代とのやりとりを作品「大空の鷲」に残している。
太宰治は昭和13年9月に井伏鱒二に連れられ、およそ三カ月の天下茶屋の滞在を、小説「富獄百景」に残している。
その後、昭和23年に太宰治が入水自殺したのを受け、昭和28年に井伏鱒二とともに太宰治文学碑を建立下と云う。
天下茶屋
北斎は、1794年頃に淋派の流れを組む俵屋宗理を襲名した頃、狂歌絵本や狂歌摺物で頭角を表し、名所の賑わいや人々の暮らしを描いており、すでにその中に風景描写として富士を描いている。
「河口湖美術館」
湖を望む美術館。
足立源一郎「富士」、岡田紅陽「新雪光る」など富士山をテーマにした 作品など、数も常設展充実している。
入館料有料。
美術館付近の湖畔の紅葉が良い、11月。
「オルゴールの森」
ヨーロッパ風庭園 入館料有料。
オルゴールの演奏が聴ける。
富士山5合目「山岳ドライブ」・6合目「2400m」・7合目「2700m」・8合目「3100m」・本8合目「3400m」・9合目「3500m」
山頂馬の背「3776m」。
北麓から見た富士山
三つ峠と河口湖
河口湖北岸の「河口湖自然生活館」に隣接する公園。
富士河口湖町、名物イベント「河口湖ハーブフェスティバル」の大石会場としても知られ、6月中旬から7月中旬までは、雪をかぶっていない夏富士と、じゅうたんのように植えられたラベンダー。
7月には周辺でブルーベリー狩りも楽しめる。
大石公園は、いろいろの催し行事。
ハーブラベンダー10万株が
「大石紬伝統工芸」
山梨県郷土伝統工芸品にも認定され、江戸時代からこの地に伝わる伝統手織り紬の大石紬。300年以上の歴史を誇る織物で、養蚕から機織り、加工までを一貫して見学できる。
「大石・浅間神社」
大正6年大石村の大火災にで焼失。
「伝に曰く後奈良天皇の御宇、天文二十三年(室町、戦国時代後奈良天皇1532-1555)の創建にかかり、爾後河口湖の水難除け、並に雨乞祭りの祈願所として齋祭す。
境内社に玉依姫神社もあり、本社祭神豊玉姫命の御妹君にましまし、鵜茅葺不合尊の后神にして神武天皇の母君にまします、、、」とある。
次回、河口湖浅間神社へ。